武田勝頼の新府城阯を歩く
先日、山梨に行ってきました。甲府の駅前に武田信虎像が新しく立っていました。2018年の暮に立ったんですね。肖像画にそっくりの、クセのある坊主頭で、うれしくなりました。
というわけで本日は新府城阯を歩きます。
新府城は天正9年(1581)2月、武田勝頼が築いた、武田氏最後の城です。在城わずか68日目にして勝頼は新府城に火をつけ、武田家家老の小山田信茂をたよって落ち延びますが、裏切りにあい、勝頼は天目山にて自害。武田氏は滅亡しました。
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新府城
JR中央本線 新府(しんぷ)駅下車。
駅から西の方角にこんもりした山が見えています。
それを目指して、桃畑の中の道を西へ約1キロ。新府城の登り口です。
新府城について
新府城は正式には新府中韮崎城。武田勝頼が造営した武田氏最後の城です。七里岩台地の上に築かれた平山城で、標高は524メートル。石垣を使わず土塁を積み上げていることに特徴があります。
城の西側は高さ129mの断崖で釜無川に接します。釜無川をはさんで対岸の下流には武田氏の氏神である武田八幡宮があり、甲斐武田氏の祖・武田信義の館阯もあります。武田氏にゆかりの深い地です。
武田信玄の跡をついだ勝頼は、天正3年(1575)三河国長篠城をめぐって織田・徳川連合軍と設楽原(したらがはら)にて合戦し、大敗北を喫します。馬防柵を築いての鉄砲隊の前に、武田騎馬軍団は次々と倒されました。
馬場信春、内藤昌秀、山県昌景など、古くからの武田家の重臣が、長篠設楽原の合戦で戦死しました。
長篠設楽原の合戦後、武田氏の家運は急激に傾いていきます。織田信長・徳川家康・北条氏政に周囲をおびやかされ、武田方の城は次々と落とされていきました。
「このままでは躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)もあぶない」
躑躅ヶ崎館跡(現 武田神社)
そう考えた武田勝頼は、一族の穴山梅雪の進言を容れて、躑躅ヶ崎館を出ることを決意。甲府より西北に位置する韮崎に城を築きました。勝頼は韮崎の地を、甲府にかわる新しい府中(新府中)にしようとしたようです。
なぜ韮崎なのか?いくつかの理由が挙げられます。
一、韮崎は甲府一国に限ると西のはずれだが、武田の領国(甲斐・信濃・西上野・駿河)の全体から見ると、中央に位置する。いずれの領国にも出入りがしやすく、交通の便がよい。
一、富士川の上流である笛吹川・釜無川に近く、川を使った物資輸送に便利である。
一、古府中(甲府)は三方を山に囲まれ、守るにはよくても町を広げ商業を盛んにするには向いていなかったこと。
一、勝頼の本拠地ともいえる諏訪高遠に近いこと。勝頼の母は諏訪大社の神官の家系の諏訪頼重の娘であり、勝頼は武田の家督を継ぐ以前は10年間、諏訪高遠家に養子に出て「諏訪四郎勝頼」と名乗っていた。
…など、いくつかの理由が挙げられます。けして勝頼は、いきあたりばったりで韮崎に拠点を選んだのではないのです。
天正9年(1581)2月より、真田昌幸を普請奉行(工事責任者)として新府城の築城を開始。築城作業は昼夜ぶっ通しで行われ、7ヶ月後の9月にほぼ完成。しかし勝頼はすぐには移らず、12月24日、寒風の吹きすさぶ中、新府城への強引な「遷都」が行われました。
引っ越しが遅れたのは北条氏の家臣・笠原新六郎が内通してきたため、その対応に追われていたせいと思われます。
翌天正10年(1582)、武田信玄の娘を妻に迎えていた木曽福島城主・木曽義昌が武田を裏切り、織田・徳川連合軍につきます。
「おのれ木曽義昌!武田の身内が裏切りとは!」
勝頼は2月2日、軍勢を率いて新府城を出発。諏訪の上原城に陣をしきますが、織田信長の軍勢が木曽義昌を支援するために信濃に侵攻。武田方の城は次々と陥落。また織田方に投降する者あり、敗走する者あり。まるで戦いになりませんでした。
2月28日、勝頼は上原城を引き払い、新府城に帰還。
2月29日、勝頼夫人は武田八幡宮で祈願します。
「八幡様、どうか武田に武運を」
しかし夫人の願いもむなしく…
3月2日、勝頼の弟仁科盛信の守る高遠城(長野県伊那市高遠町)が、織田信忠(信長の嫡男)によって落城しました。
翌3月3日、勝頼は新府城に火をかけ、小山田信茂のまもる岩殿城(現 山梨県大月市)めざして落ちていきました。在城わずか68日でした。
しかもようやく岩殿城に近づくと、頼みの小山田信茂は心変わりしており、岩殿城に入れませんでした。そこで勝頼一行は進路を変え、岩殿城の北方・天目山をめざしますが。
天正10年(1582)3月11日、天目山田野の里にて、信長方の滝川一益に包囲され、勝頼は妻の北条夫人と、嫡男の信勝とともに自害しました。ここに甲斐武田氏は滅亡したのです。
その後の新府城
武田氏滅亡後、織田信長は甲斐の国の代官として河尻季隆(かわじり すえたか)を命じました。しかし同年6月、信長は本能寺の変で討たれました。信長が討たれると、甲斐では河尻季隆が一揆によって殺され、無政府状態に陥りました。
そこへ、北条氏直(うじなお)と徳川家康が侵攻してきます。無政府状態の旧武田領を手に入れようとしてです。
北条氏直は上野(こうずけ)から信濃に入り甲斐に向けて南下。徳川家康は浜松から甲府に入り、諏訪を攻撃。
しかし「北条の大軍が南下してくる」との報告が入ると、徳川勢は諏訪への攻撃をあきらめ、新府城まで撤退。
北条勢は勢いを得て、信濃から甲斐に侵攻。若神子(わかみこ)城(北杜市須玉町若神子)に着陣し、新府城の徳川勢と対峙します。
徳川勢は新府城に、北条勢は若神子城に立てこもり、二ヶ月半にわたってにらみ合った末。
天正10年(1582)10月29日、徳川・北条の間に和議が成立。北条勢は退却していきました。以後、徳川氏が甲斐を領有することとなりました。徳川によって甲斐の府中(中心地)は甲府にもどされ、新府城は廃城となりました。
大手
新府城の東南端中腹にある枡形虎口(出入り口)です。
新府城の表玄関にあたります。土塁と土塁の間に門があったと思われます。しかし門の遺構はまだ発見されていません。
丸馬出し
大手の前に半円形に築かれた構(かまえ=構造物。土塁)です。
馬出しとは門の前に築いて馬や兵士の出入りを敵に見せないための土塁で、武田流築城法の特徴の一つとされます。
三日月堀
大手丸馬出の形にあわせて三日月型に築いた堀です。
東三之丸・西三の丸
新府城の三の丸は台形の形をした曲輪です。中央を南北にまっすぐな土塁が走り、この土塁によって東三之丸・西三の丸の二つに分かれています。
建物の遺構などはまだ発見されていないそうです。草茫々で、いまちいちわかりません。
ニ之丸
ニ之丸に来ました。
東西約70m、南北約55mの曲輪で周囲を土塁に囲まれ、西側は七里岩の断崖に接します。三之丸は草茫々でしたが、ニ之丸はよく整備されて曲輪の感じがつかめます。
本丸
本丸に来ました。東西約90m、南北約150mの曲輪です。
本丸西南部は蔀の構(しとみのかまえ)と呼ばれる東西約10m、南北約50mの枡形空間です。
植込・蔀土居(しとみどい)・蔀塀(しとみべい)で敵の視界を遮り、城内を見えないようしたと考えられています。
※
蔀土居(しとみどい)…城外から城の中を見透かせないように設けた土居(土塁)。
蔀塀(しとみべい)…城外から城の中を見透かせないように設けた塀。
本丸北の高台から見る、八ヶ岳の勇姿。すばらしいです。
武田勝頼公霊社。勝頼公を供養して建てられた祠です。
本丸東部は一段低くなっており、藤武神社が鎮座します。
藤武神社は新府城廃城後、江戸時代に武田氏を祀って建てられました。藤武神社前からふもとの県道まで、長い石段が続いています。
東出構・西出構
北側の堀には東出構・西出構と呼ばれる二つの盛り土が、東西約110mはなして張り出しています。ほかの城にはない、新府城のみの遺構です。
新府城跡を後に、県道17号線を南に徒歩12分。光明寺があります。
木曽福島城主・木曽義昌の嫡男・木曽千太郎、その妹、母の墓があります。
木曽義昌(木曽義仲の子孫)は武田信玄の三女・真理姫を妻として迎え、武田家とは姻戚関係にありました。しかし武田家の家運がかたむくや木曽義昌は武田家からの離反を画策。織田・徳川連合軍に通じました。新府城移転にともなう急負担にたえかねて、とも言われています。
おのれ木曽義昌!武田の身内が裏切りとは!
天正10年(1582)2月2日、勝頼は木曽義昌を討たんと軍勢を率いて新府城を出発。諏訪の上原城に陣をしきます。
そこへ織田信長の軍勢が木曽義昌を支援するために信濃に侵攻。武田方の城は次々と陥落。また織田方に投降する者、敗走する者も多く出ました。まるで戦いになりませんでした。
翌3月3日、勝頼は新府城に火をかけ、小山田信茂のまもる岩殿城めざして落ちていきました。その際、勝頼は人質として預かっていた木曽義昌の嫡男・木曽千太郎13歳、妹17歳、母70歳を上野豊後守宅より連れ出します。
三人を近くのおどり原に引立て、家臣土井惣蔵の介錯で斬らせました。その後、上野豊後守が塚を建て、ゆえあってここ光明寺の境内に移しました。
次回は武田信虎(信玄の父)の築いた要害城趾(要害山)を歩きます。お楽しみに。
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次の旅「武田勝頼 終焉の地を歩く」