豊臣秀吉を祀る「豊国神社」と秀吉の墓「豊国廟」を歩く
先日、嵐山を歩いたら桂川の水がずいぶん減ってて、驚きました。夏に嵐山行った時は桂川に満々と水をたたえていたんですが…いったい何があったのか。渡月橋の足が、だいぶ下まで露出してるのが、ちょっと可哀想な姿でした。
さて先日発売しました
聴いて・わかる。日本の歴史~天下統一への道 信長・秀吉・家康
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しばらくこの商品に関連して戦国時代の話をお届けしております。
本日は豊臣秀吉を祀る「豊国神社」と秀吉の墓「豊国廟」を中心に歩きます。
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京都駅~豊国神社
京都駅から豊国神社へ行くには、三十三間堂行きのバスに乗るかJR奈良線で東福寺で京阪電車に乗り換えて七条でおりますが、三十三間堂行きのバスはものすごく混むし、乗換はめんどくさいので、歩きます。
三十三間堂界隈なんて歩いてちょっとです。京都駅から歩きましょう。途中の道のりも、いろいろと豊かな景色が有りますので。
京都駅烏丸(からすま)口出たら烏丸通りから東一本目の不明門通(あけずどおり)に入ります。旅館がずらっと並んで、修学旅行のワクワク感がこみ上げます。
やがて烏丸通りに出て、東本願寺前の紅葉に見とれつつ、
仏具屋の多い下数珠屋町通り(しもじゅずやまちどおり)に入ります。
これぞ京都という町並み。
旅館「だいや」。ここは昔よく泊まりました。宿の主人は気さくなおばちゃんでキレイな京都弁で出迎えてくれます。
やがて渉成園(しょうせいえん)の外壁が見えてきます。
河原左大臣(かわらのさだいじん)・源融(みなもとの とおる)ゆかり庭園です。いろいろと豊かな物語がつまっています。しかし今回はスルーして。
河原町通りを横切り、…横断歩道がほとんどかき消えていて心配になるレベルですが…
ホテルサンマルタンの所から細い道に入る。ここからが正面通りです。
高瀬川に架かった正面橋を渡り、
鴨川に架かった正面橋を渡り、
鴨川東の川端通りを横切って、さらに正面通りを東に進んでいくと。
見えてきました。豊国神社の大鳥居と、見事な紅葉が。
参道右をご覧ください。耳塚です。
豊臣秀吉による二度目の朝鮮遠征「慶長の役」(1597年)において、朝鮮人の耳や鼻を切り取って持ち帰ったのを、埋めて供養した塚です。二万人ぶんの耳と鼻が埋められていると言われます。鼻塚ともいいます。
朝鮮では手柄を立てたことを証明するのに、国内の戦いのように、いきませんでした。何しろ首はかさばります。いちいち本国に輸送するのは手間です。
そこで敵の耳や鼻をそいで塩漬けにして本国に持ち帰ったといいます。しかし耳や鼻ならば、別に戦闘員のものでなくてもよい。検分の時に戦闘員か非戦闘員かはバレない。数さえ多ければ手柄になるということで、しまいには農民や女子供、赤ん坊まで殺して耳切り・鼻切を行ったと伝えられます。
豊国神社
それでは豊国神社に参拝します。
トヨクニ神社とも、ホウコク神社とも。「ホウコクさん」の名で親しまれています。慶長3年(1598)豊臣秀吉が没すると、その遺体は東山阿弥陀ヶ峰の山上に葬られました。阿弥陀ヶ峰の山腹の「太閤坦(たいこうだいら)」に日本初の権現造りの荘厳な社が築かれました。これが豊国神社の前身たる「豊国社(とよくにのやしろ)」です。
後陽成天皇より正一位の位と豊国大明神の号が送られ、慶長9年(1604)秀吉の七回忌には特に盛大な祭礼が行われました。
しかし徳川家康が大阪夏の陣で豊臣氏を滅ぼすと、阿弥陀ヶ峰山腹の豊国社は幕府により徹底して破壊されました。明治13年(1880)旧方広寺大仏殿にあたるこの地に再建され、現在に至ります。
唐門
拝殿の前の唐門は、伏見城の遺構と伝えられ、伏見城から二条城、南禅寺金地院を経てここに移築されたということです。
西本願寺、大徳寺の唐門と並び国宝三唐門の一つに数えられます。
秀吉の馬印である「千成瓢箪(せんなりひょうたん)」をかたどった縁結び絵馬が下がっていて、ニヤリです。
残念ながら唐門の中に入れるのは正月三が日だけです。
貞照神社
拝殿の右側に秀吉の正妻、「高台院」こと「おね(ねね)様」を祀った「貞照(さだてる)神社」があるのですが…
この位置からはちょっと見えづらいです。こちらも正月三が日だけ参拝することができます。
宝物館
宝物館には豊臣秀吉の遺品である太刀や唐櫃、秀吉七回忌の様子を描いた狩野内膳筆の「豊国祭礼図屏風」が展示され、秀吉の存在をいっそう身近に感じることができます。
あっ身近といえば秀吉の「歯」が展示してあります。「豊太閤御歯」とあり、証拠の書状もあるので、確かなものなんでしょう…
馬塚
宝物館裏手の駐車場の奥に、「馬塚」なる五輪塔があります。
阿弥陀ヶ峰山腹の豊国社が徳川幕府によって徹底して破壊された後、秀吉を慕う人々が豊国社の代拝所として建てたと。しかし徳川幕府の権勢をはばかって、近所の地名である「馬町」から馬塚とよんだと言われています。
では豊国神社北隣の方広寺に向かいます。方広寺は豊臣氏滅亡のきっかけとなった寺として有名です。
文禄4年(1595)豊臣秀吉による創建。創建当時、東大寺の大仏をも上回る木製の大仏が安置されていましたが、地震で倒壊しました。
秀吉の死後、家康が秀吉の遺児・秀頼とその母淀殿にすすめて大仏と大仏殿を再建させます。この時は金銅製の大仏が建てられ、高さ4メートルの釣鐘が作られました。しかし、その釣鐘の文字がけしからんと家康が難癖を付けてきました。
国家安康
君臣豊楽
国家安康は「家康」の名を切っている。「君臣豊楽」は豊臣氏を君としていただいて天下が楽しむということだ。明らかにこれは徳川が滅んで豊臣の世になれという意味をこめているのだと。…こんな酷い言いがかりにより大阪の陣が起こり、豊臣氏滅亡に至るわけです。実際にはこの「方広寺鐘銘事件」だけでなく、家康は何のかんのと豊臣方に難癖をつけていました。その集大成としての、決定打としての、「方広寺鐘銘事件」だったわけです。
問題となった八文字は白く囲まれており、観察できます。
寛文2年(1662)大仏殿は地震で倒壊し、大仏は徳川氏によって破壊されました。天保年間に市民の寄付によって大仏は再建されますが、それも昭和48年(1973)の火事によって焼失してしまいました。
現在、大仏殿跡は大仏殿跡緑地として整備されています。
また方広寺・豊国神社の前の大和大路沿いには大仏殿に使われた大きな石垣が残ります。
新日吉神宮
方広寺を後に、阿弥陀ヶ峰の豊臣廟(ほうこくびょう)を目指します。三十三間堂は今回はスルーして、京都国立博物館を通り過ぎ、
智積院と妙法院門跡の間の豊国廟参道に入ります。
参道左手の妙法院の築地塀、ずらっと犬やらいが付属して、味わい深いです。
築地塀の屋根がまっすぐでなくゆったりしたカーブを描いてるのも、いいですね。向こうに阿弥陀ヶ峰が高くそびえているのも気分高まります。やがて、
参道右手に見えてきました。新日吉神宮(いまひえじんぐう)です。
新日吉神宮は後白河法皇が御所である法住寺殿を造営された際、厄除けのため永暦元年(1160)近江の日吉(ひよし)神社を勧請したのが始まりです。
はじめ智積院の南に位置しましたが、明治に入って豊国廟が阿弥陀ヶ峰に復活した時に、この位置に移されました。
本殿前には一対の神猿…神の使いの猿の像が立っています。
猿は日吉神社(日吉大社)の守り神です。日蓮が焼き討ちの法難にあって山道を逃げていく時、白い猿が導いてくれたといった伝説もあるように、古来、猿は神の使いとされてきました。木下藤吉郎が猿と呼ばれていたことも関係してるんでしょう。
荘厳な流造りの本殿と、五つの摂社があります。
樹下社
中にも注目したいのが樹下社(このもとのやしろ)です。
江戸時代に徳川の目をはばかりながら秀吉を祀った社です。祀られている神様は「樹下の神」たる玉依姫ですが、木下藤吉郎の姓を通わせて、ひそかに秀吉を祀ったということです。いろいろ苦労したんですね。
本殿裏手にスダジイの大木。見事な力強い幹です。力が伝わってきます。
新日吉神宮を後に、豊国廟の参道を登っていきます。目の前にそびえるあの山が、阿弥陀ヶ峰です。あの上に太閤さんが祀られているのです。
つゆとを(落)ち つゆときへにし わかみ(我が身 )かな
なにわの事も ゆめの又ゆめ
天下人豊臣秀吉は慶長3年(1598)8月18日、伏見城で亡くなりました。遺骸は遺言により京都東山・阿弥陀ヶ峰に埋葬されました。山頂に墓が、山麓に荘厳な豊国社(とよくにのやしろ)が築かれました。
元和元年(1615)大阪夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、幕府により豊国社も墓も破壊されました。以後、江戸時代を通してこの地は荒れ寂れていましたが、明治13年(1880)豊国社は豊国神社として生まれ変わり、明治31年(1898)墓も豊国廟として再建されました。
京都女子大を左に見ながら、坂道を登っていきます。やがて見えてきました。豊国廟へ続く石段が。500段あります!
私の故郷熊本にも加藤清正を祀った本妙寺の裏手に大階段がありますが、あれはたしか300段。500段はかなりのもんだと、気合入れて挑みましたが、
3分で疲れた…
運動不足を実感します。
階段が途切れて「もう頂上だ!」と思ったら、そこが単なる踊り場状の中間地点だった時の絶望感。
ようやくたどりつきました。巨大な五輪の塔。豊国廟です。木々の合間に京都の町並みが見下ろせて気分いいです。
本日は豊臣秀吉を祀った豊国神社、豊臣家滅亡のきっかけとなった方広寺、新日枝神宮、豊国廟と、京都の豊臣秀吉ゆかりの場所を歩きました。次回から江戸城跡…皇居東御苑、外苑公園、北の丸公園を歩きます。お楽しみに!
次の旅「平安神宮と周辺を歩く」