鎌倉 鶴岡八幡宮を歩く

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本日は「鶴岡八幡宮を歩く」です。

▼音声が再生されます▼

「鎌倉 小町大路を歩く(二)」もあわせて、お聴きください。
https://sirdaizine.com/travel/KomachiOji2.html

鎌倉駅~若宮大路

JR鎌倉駅で下り、


東口正面の道を少し行くと、


そこが、若宮大路です。


左に折れ、少し歩くと二の鳥居がそびえます。


一の鳥居は鎌倉駅入口より南側にあります。

若宮大路は寿永元年(1182年)源頼朝が、妻政子の安産祈願のために造営させました。由比ヶ浜から鶴岡八幡宮を一直線につらぬき、京都の朱雀大路を模して造られたと言われます。

道幅はもっとも広い所では33メートルあり、鶴岡八幡宮に近づくにつれて狭くなっていました。遠近法によって、はるかな道に見せていたわけですね。

ただし、若宮大路はふだん通行するための道ではなく、宗教用・儀式用の道だったと思われます。そのため、若宮大路両側の屋敷や寺院は、若宮大路に表を向けて建てることは許されず、みな、背中を向けていたと考えられています。

現在、若宮大路に近い本覚寺が若宮大路に背を向けているのは、その名残と言われています。

中央の一段高い参詣道は、段葛(だんかずら)と呼ばれます。


若宮大路造営当時は一の鳥居(浜の大鳥居)から鶴岡八幡宮まで段葛があったようですが、江戸時代末期には現在の下馬四つ角までとなり、明治時代には横須賀線開通によって大きく削られ、二の鳥居から三の鳥居までとなりました。

2016年2月現在、段葛は工事中であり、入れません。写真は5年前に撮影したものです。開通は2016年3月とのことです。

若宮大路沿いには鎌倉彫の店や、おみやげ屋さんが軒をつらね、鎌倉観光気分を高めてくれます。



見えてきました。鶴岡八幡宮・三の鳥居です。


鶴岡八幡宮の始まりは、永承6(1051)年・源頼義が奥州で起こった安倍氏の反乱「前九年の役」に出陣する際、京都の石清水八幡宮で戦勝祈願をしました。そして見事勝利できました。

「すべては八幡神の御加護!ありがたや」

感謝した源頼義は、康平六年(1063年)鎌倉の地に石清水八幡宮を勧請し、由比若宮(ゆいわかみや)を造営しました。現在の鎌倉材木座にある、元八幡(もとはちまん)という小さなお社がそれです。ちなみに源頼義は源頼朝の5代前のご先祖さまです。

そして約120年の月日が流れ…

治承四年(1180年)源頼朝が鎌倉入りします。

「わが先祖の拝んだ由比若宮よ。どうか平家を滅ぼし、天下を平らかにするのに、力を貸してくだされ」

頼朝はそんなふうに祈って、材木座にあった由比若宮を、小松郷松岡の地に遷し、鶴岡若宮としました。京都における内裏の位置に、鶴岡若宮を据えたのです。これが現在の鶴岡八幡宮のルーツです。

建久2年(1191年)鶴岡若宮が火事により焼失すると、背後の大臣山(だいじんやま)の中腹にあらたに石清水八幡宮を勧請。これを本宮(ほんぐう)(上宮 うえのみや)とし、山の下には若宮(下宮 しものみや)を再建しました。こうして現在の、山の上下にお宮が分かれた、上下両宮の形となりました。

三の鳥居をくぐります。

源平池

石造りの太鼓橋の両側には、右に源氏池。左に平家池が広がります。





寿永元年(1182年)、北条政子は大庭景義に命じて鶴岡八幡宮東西に池を掘らせ、東の池・源氏池には「産」になぞらえて三つの島を配し、西の池・平家池には「死」になぞらえて四つの島を配しました。

つまり、源氏は栄えよ、平家は死んでしまえという願いが、この池には、こもっているのです。そんな怨念も知らず、スイスイ泳ぐカモたちの姿は平和です!

かつては源平の旗の色によって源氏池には白い蓮が、平家池には赤い蓮が植えられていたといわれます。

源氏池に浮かぶ小島には、旗上弁財天社が建っています。


治承四年(1180年)打倒平家の旗揚げをした源頼朝が戦勝祈願をした場所と伝えられます。また、鎌倉江島七福神の一つにも数えられています。

境内にはいたる所に奉納幟が立てられ、気合が入ります。妙に高揚します。



朱塗りの社殿の背後には政子石、もしくは姫石とよばれる夫婦石があり、夫婦円満・恋愛成就にご利益があるとされています。


舞殿(まいでん)

広い表参道を進んでいきます。



たくさんの参拝者。参道両脇の出店。気分高まります。そしてしだいに近づいてくる朱塗りの建物。あれが!

舞殿です。


舞殿こと下拝殿(しもはいでん)は、静御前のエピソードがあまりに有名です。

文治2年(1186年)、源義経の愛妾・静は吉野山中で捕えられ、鎌倉につれてこられました。頼朝・政子夫妻はじめ、並み居る御家人たちの前で舞を舞うことになった静は、恋人・義経のことを思い、舞い、かつ歌うのでした。

吉野山 峰の白雪ふみ分けて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

しづやしづ しづのをだまき 繰り返し 昔を今になすよしもがな

「うぬぬ。反逆者義経を慕う歌を詠むとは、ふとどきな」

怒る頼朝。しかし、政子がこれを遮ります。

「あなた、なんと情けないおっしゃりようですか。あなたが石橋山の合戦に敗れた時、私はどんなに心細かったことか。あの時の私と、今の静殿と、女人の心は同じでございます」

「ぬ…政子がそこまでいうなら」

こうして政子のとりなしにより、頼朝は静に褒美を下したという、あの有名なエピソードが伝わる、ここが、鶴岡八幡宮・舞殿です。毎年4月の鎌倉まつりの際に、「静の舞」が奉納されています。

下拝殿右手には、若宮が鎮座します。


頼朝公が鎌倉入りした時、材木座にあった由比若宮をこの地に遷し、鶴岡若宮としました。つまりこの若宮が、鶴岡八幡宮のルーツということになります。

その後、建久2年(1191年)の火事で焼失したので、背後の大臣山中腹に石清水八幡宮を勧請して本宮とし、山のふもとの若宮も再建されて、現在の上下両宮の形となりました。

つい見落としがちな位置にありますが、この若宮こそ、鶴岡八幡宮のルーツなんです!しっかり拝んでいきましょう。

大銀杏

下拝殿左手にあるのが、別当公卿が隠れていたという大銀杏です。


2010年3月10日の台風で根元から折れてしまいました。現在は、すぐ横に移植して、新しい銀杏がのびるのを待っている所です。鶴の子会奉納の「がんばれ大イチョウ」の文字が頼もしいですね。



八幡宮の石段に立てる一木の大銀杏
別当公卿の隠れしと歴史にあるはこの影よ

と『鉄道唱歌』に歌われています。

大石段を登り切ると、


本宮の楼門です。


額にある八幡宮の「八」の字が、鳩が向かい合ったデザインになっているのに注目してください。楼門をくぐると、回廊に囲まれた社殿は、手前から拝殿、幣殿(へいでん)、本殿と並ぶ、流権現造(ながれごんげんづくり)です。

現在の社殿は文政11年(1828年)11代将軍徳川家斉によって再建されたものです。


向かって左の回廊が宝物館となっており、衣装や儀礼用の武具などが展示されています。

流権現造とは、流造(ながれづくり)と権現造(ごんげんづくり)をあわせたものです。流造も権現造も、横から見ると特徴がよくわかります。

流造りは屋根が、前に長く前にひきのばしたように、前にかぶさった形です。たとえば京都の下賀茂神社・上賀茂神社の本殿が流造として有名です。

そして権現造りとは、拝殿と本殿の間を幣殿とか石の間とよばれる低い建物でつないだ建物の構成のことです。東京でいえば上野東照宮や根津神社が権現造りとして有名です。

これら、流造と権現造をあわせたものが、流権現造というわけです。拝殿の横から、拝殿の屋根が前に長く伸びているさまを、観察してください。そして拝殿と本殿の間に、幣殿という低い建物がはさまっていることを、観察してください。

神苑ぼたん庭園

さて、鶴岡八幡宮三の鳥居右手には、神苑ぼたん庭園の入り口があります。


鶴岡八幡宮創設800年を記念して源氏池のほとりに作られました。私が行ったときは、藁囲いに守られた正月ボタンがいつぱい咲いていました。いかにも大事に大事に育てられてる感じで、ほほえましかったです。


次回は、鎌倉・扇ヶ谷(おおぎがやつ)を歩きます。お楽しみに。

本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。ありがとうございました。

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