宇治を歩く(ニ)宇治神社、喜撰法師歌碑、宇治上神社、興聖寺
寺町通の古本屋を見てたら、ショーケースに与謝蕪村筆による「おくのほそ道画巻」に3800万円の値札が付いてました。その3800万円の値札の付け方が、いかにもショートケーキ400円、ダウンジャケット10000円などと同じ感じに、ごくふつ~な感じで値札がついてるのが、いろんな意味で、さすが京都…と思いました。
本日は「宇治を歩く(ニ)」喜撰法師やウジノワキイラツコ、道元禅師についてもお話します。前回「宇治を歩く(一)」からのつづきです。
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前回「宇治を歩く(一)」はこちら
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宇治川沿いの道
平等院を後に宇治川沿いの道をぶらぶら歩きます。
とても雰囲気がよくて歩いているだけでワクワクします。
時間の流れがゆったりしてる感じです。
宇治川の平等院側(西岸)から東岸に渡るには3つのルートがあります。橘橋(たちばなばし)から橘島(たちばなじま)へ渡り朝霧橋(あさぎりばし)を渡るか、喜撰橋(きせんばし)から塔の島(とうのしま)へ渡り、さらに橘島へ渡り朝霧橋を渡るか、宇治橋を渡るか。
今回は宇治橋から渡ります。
宇治橋は瀬田の唐橋、山崎の橋とならび、日本三古橋の一つに数えられます。壬申の乱や源平の合戦・承久の乱・戦国時代にも合戦が行われたり戦略上の重要なポイントとなりました。
現在の宇治橋は平成8年(1996)に架け替えられたものです。上流側には「三の間」という張り出し部分があり、橋の守り神である橋姫を祀ってあります。豊臣秀吉がここで茶の湯を汲ませた、という話も伝わっています。
左を御覧ください。こんもり見えているの小高い丘。あれが応神天皇皇子・菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の墓と伝えられます。
ウジノワキイラツコの墓
宇治川東詰にわたったらすぐ左手が京阪宇治線宇治駅です。駅の左の道から住宅街を歩いてくと、さっき宇治橋の上から見えた菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の墓です。
菟道稚郎子は15代応神天皇の皇子。16代仁徳天皇の弟。父応神天皇の寵愛深き皇子でした。兄であるオホサザキこと仁徳天皇に帝位を譲るために自殺したとも、単に若死にしただけとも伝えられます。
ウジノワキイラツコとオホサザキの兄弟が、もう一人の兄大山守(オホヤマモリ)と宇治川を舞台に戦う場面は、『古事記』後半の山場の一つです。
ウジノワキイラツコの墓を後に宇治橋東詰に立ち返り、宇治川沿いの道を進んでいきます。すぐ左に道が分岐します。「さわらびの道」という石畳の雰囲気ある通りです。
宇治神社
さわらびの道をしばらく進むと、正面に見えてくるのが宇治神社です。
応神天皇皇子ウジノワキイラツコ、応神天皇、仁徳天皇を祀ります。
宇治川の対岸に藤原頼通が平等院を開くと、平等院の鎮守の社とされました。もともとはこの先にある宇治上(うじがみ)神社と一体で上下二社からなり、宇治離宮明神(うじりきゅうみょうじん)と称されましたが、明治に分離して、上社は宇治上神社、下社は宇治神社となりました。
喜撰法師の歌碑
石段のたもとに喜撰法師の歌碑。
わが庵は都のたつみしかぞ住む
よをうじ山と人は言ふなり喜撰法師
私の庵は都の東南にある。こんなふうにのんびり暮らしているよ。
それなのに都の人たちは宇治山だけあって、
「憂し」憂鬱な場所だなんて言ってんだろうなあ。
のんびり宇治で隠居生活を送っているのです。
都のみなさんはご苦労さんですなあ。
毎日満員電車にゆられて。
ややこしい人間関係にキリキリ胃を痛めて…
それに比べてこっちはノンビリですよ。
作者は都での人間関係に疲れたんでしょうか。仕事に挫折したんでしょうか。それで、宇治に隠棲した。のんびり暮らしている。みなさんは宇治は心憂い場所だなんて言いますけど、なに、のんびり暮らしてますよと。うそぶいている歌です。
ひょうひょうとした中にも、まだ都の暮らしや都人へのコンプレックスがこもっているようです。
本当は俺も都で成功したかったんだけどなあ…チェッ
そんな、鬱屈した気持ちも入っているようで、
そこがいよいよ、この歌の魅力に思えます。
さらに道を登っていくと宇治上神社です。
宇治上神社はもと宇治神社と一体で宇治離宮明神と称されましたが、。明治に入って分離し、上社は宇治上神社。下社は宇治神社となりました。
15代応神天皇・その皇子であるウジノワキイラツコ・そして16代仁徳天皇を祀ります。狭い境内に拝殿と本殿が建つのみですが、古色蒼然たる趣をたたえています。
散りかけの紅葉が最後の命を燃やしてる感じでした。
風に吹かれてはらはら、はらはら、紅葉葉が舞い散る風情がよいです。
拝殿・本殿
石段をのぼると拝殿。
拝殿両脇に「清めの砂」。
拝殿の奥が本殿。
平成16年(2004)の調査で1060年代の建造とわかり、現存する日本最古の神社建築ということが明らかになりました。
桐原水
拝殿右横には、ウジノワキイラツコの桐原日桁宮(きりはらのひけたのみや)にちなむ、桐原水という湧き水があります。
宇治七名水の一つとして親しまれています。
飲むことはできないんですが、手をつけて、ヒンヤリした気分を味わっていきましょう。
浮舟と匂宮のモニュメント
宇治上神社から宇治神社に戻り石段を下ると、ふたたび宇治川沿いの道に出ます。すぐ正面に浮舟と匂宮のモニュメントがありますが…
このモニュメントが曲者です。真東を向いているので、午前中来ないと顔が影になって見えないです。いつも宇治に来る時は平等院見てる間に午後になっちゃうので、私はいまだに浮舟と匂宮の顔を明るく拝んだことが、無いです。今後の課題とします。
しばらく宇治川沿いに歩くと観流橋に至ります。
ここから関西電力宇治発電所からの水路が宇治川に流れ込んでいる様子が観察できます。
瀬田川から11キロの水路が宇治発電所まで通り、最終的にこの水路から宇治川に流れ込むという仕組みです。瀬田川と宇治川の高低差を利用したものです。水路の正確な地図が見つからなかったのでテキトーですが、概念としては、こんな感じです。
水路沿いの紅葉が、最後の輝きを放っていました。
興聖寺
観流橋を渡って、さらに宇治川沿いに進んでいくと、
左手に石門が見えてきます。
興聖寺の入り口です。石門をくぐると、琴坂という長い坂です。
左右は石垣が迫っており、側溝を流れる水の音も風情があります。
今年最後の紅葉が色を競いあっていました。
坂を登りきり、竜宮造りの山門をくぐり、
薬王門をくぐると
左右に回廊がのびています。正面に朝日山がワッと迫っています。右手の建物が庫裏。ここを起点に見学ができます。
興聖寺は曹洞宗の祖・道元が貞永2年(1233)、伏見深草に建てた寺です。しかし伏見深草は都に近すぎ、修行の場としてはいろいろと問題がありました。まず比叡山延暦寺から弾圧を受けること。
また道元禅師は都の俗な空気が入ってくるのを嫌ったので、寛元元年(1243年)福井の永平寺に移りました。
その後、興聖寺は荒れ果てる一方でしたが、江戸時代の慶安元年(1648)淀城主・永井尚勝(ながい なおかつ)により宇治に再建されのが現在の興聖寺です。
とても親切なお寺でした。受付の尼さんが、どうぞ写真撮っていってください。紅葉はちょっと盛り過ぎちゃいましたけどねなど、気さくに声かけてくださいました。
料金も最初に300円払うだけです。
京都市内の寺寺と何と違うことか!
洛中の大きな寺行くと、撮影禁止、ここからは別料金、宝物館別料金、奥の院別料金、狩野探幽の障壁画、別料金…何かと金取りに来ますからね。そりゃ坊主がベンツ乗り回して祇園で飲み食いできるわけですよ。
その点、ここ興聖寺は太っ腹というか、道元禅師の高い御志が今に伝わっているなァと嬉しくなりました。
ちなみに道元禅師の言葉で大好きなのはこれです。
この一日の身命は、たふとぶべき身命なり。(中略)一日をいたずらにつかふことなかれ。この一日はをしむべき重宝(ちょうほう)なり。(中略)一日百歳のうちの一日は、ひとたびうしなはん、ふたゝびうることなからん
『正法眼蔵』
血天井
本堂(法堂)は伏見城の遺構と伝えらます。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦に先駆けて、石田三成は伏見城を攻撃しました。城を守るのは徳川家康の忠臣・鳥居元忠。「鉛弾が尽きたら、金銀をいぶしてでも弾にせよ一日でも長く、三成の攻撃を食い止めよ」鳥居元忠は主君家康にそう命じられた言葉を守り、伏見城にて13日間奮戦するも、ついに家来一同とともに自害しました。
その時の血染めの床板が、後に供養のために「血天井」として
京都養源院はじめ宝泉院・正伝寺・源光庵・瑞雲院、そしてここ宇治の興聖寺に伝えられました。
聖観音菩薩立像
聖観音菩薩立像。どきっとしました。
戸を開けた時に、白い窓の前に、シルエットになって観音様が立っていらっしゃる。そのさまが、なんとも厳かで、いい雰囲気でした。
右足を少し上げているのは、衆生を救うためにすぐに駆けつけてくることをあらわしている、ということです。
帰りに琴坂を下っていくと、正面に宇治川が流れ、宇治川の水面に太陽の光がキラキラと反射して、水音が常に響き、最高の風情でした。
次回「宇治を歩く(三)」大吉山、源氏物語ミュージアム、三室戸寺など歩きます。お楽しみに。
次の旅「春の平等院を歩く」