堅田の浮御堂を訪ねる
こんにちは。左大臣光永です。
春の夜に散歩に出ると、道端の自動販売機も、
公園の植え込みも、なんとなく春めいて楽し気な感じで
ワクワクする昨今。いかがお過ごしでしょうか?
当方は、先日『松尾芭蕉 紀行文集 for Windows』
を発売いたしました。すでに多くのお買い上げをいただいております。
ありがとうございます。
https://sirdaizine.com/CD/Basho.html
しばらくこの商品にあわせ、松尾芭蕉の話を続けていきます。
本日は、滋賀県堅田(かたた)の浮御堂を訪ねます。
堅田の浮御堂は、琵琶湖のほとり・臨済宗大徳寺派満月寺(まんげつじ)の境内にあります。比叡山横川の恵心僧都源信が琵琶湖の交通安全を祈り、一千体の阿弥陀仏を手づから刻み、お堂を建てたものです。その後何度も荒廃しますが、江戸時代に臨済宗大徳寺の管理により復興し、現在に至ります。
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JR湖西線堅田駅から琵琶湖めざして歩くこと訳10分。見えてきました。
満月寺の竜宮門です。くぐると、もう正面に浮御堂があります。
堅田十六夜の弁
元禄四年(1691年)八月十六夜。
松尾芭蕉は門人たちと舟でここ浮御堂を訪れ、句を詠みました。
この頃芭蕉は大津膳所の義仲寺(ぎちゅうじ)の境内に無名庵(むみょうあん)という庵を建てて、住んでいました。
義仲寺
無名庵
昨夜は十五夜とて門人たちが集まって、遅くまで句を詠んだり、酒を飲んだり、大いに盛り上がったのでした。
翌十六日。
「う、ううーん」
芭蕉がむっくり起き上がり、空を見ると、もう夕方近いようでした。
庵の中には昨日の酒がまだ転がっています。
「さあ先生、もう舟が来ちゃいますよ」
「えっ、また月見かい」
「何言ってるんです先生、十五夜は十五夜、十六夜は十六夜です」
「とっとっと…みんな元気だなあ」
向井去来、野沢凡兆はじめ、門人たちが今起きたばかりの芭蕉をせっついて、舟つき場まで導きます。琵琶湖にはすでに、舟がついていました。ギシッと乗り込む芭蕉と門人たち。
「ゆっくり漕いでいきますからね。堅田に着く頃には月もいい具合に上がってるでしょう」
ギイ、ギイ…舟を漕ぎ出します。
午後四時ごろ、
なにがし茂兵衛成秀という者の家の後ろに舟をつけ、
「ヨッパライの風狂人どもが、月に浮かれてやってきましたぞ」
「来ましたよ」
「来ましたよ」
すると家の中から主人が出てきて、
「やや先生。それにみなさん」
主人は驚いて簾を巻き、塵を払ってくれます。
「うちの畑に芋があります。大角豆(ささげ)もあります。鯉も鮒も手料理で切り口がそろわないのが申しわけないのですが」
「いやいや主人、お構いなく」
こうして岸近くに座を並べて筵をしいて、宴会となります。
月は待つほどもなくさし出でて、湖の上をはなやかに照らします。
八月十五夜には、月が浮見堂の真正面の山から登って来るのですが、その山を鏡山といいます。満月が上に出ると、ちょうど鏡台の上に鏡を立ててあるように見えるためでしょう。
「一日違いの十六夜ですから、まだそんなに月の位置も変わっていないでしょう」
そう言って浮見堂の欄干によりかかって向こうを見ると、北に近江富士と言われる三上山、南に水茎の丘が見え、その間を峰が伸びて、低い山々が連なって見えます。
そうこう言っているうちに、月は高く昇って黒雲の中に隠れてしまいました。
「ああ…どれが鏡山か、わからなくなっちゃいましたね」
「やや、これは…しかし、月に雲がかかっているのも、また味わいじゃないですか」
などと、主人は心尽くしに芭蕉一行をもてなすのでした。
すぐに月は雲の外にはなれ出て、月の光の映じて金色に輝く秋風が銀色の波を照らし、浮御堂に安置されている千体仏のありがたい光と照らしあいます。
あけばまた秋のなかばも過ぎぬべしかたぶく月の惜しきのみかは(新勅撰・藤原定家・秋上)
夜が明けると、秋の半ばも過ぎてしまうのだ。
傾く月が惜しいだけではない。それと同時に、秋そのものが過ぎていく、
そして私の人生も半ばを過ぎていく。それが、惜しまれるのだ。
…そう歌った、藤原定家卿の歌も思い出されるのでした。
また芭蕉は思うのでした。
この浮御堂を開かれた恵信僧都源信が、歌なんてものは仏の道のさしさわりになる。くだらないものであるとして歌は詠まなかったが、比叡山から琵琶湖の沖を船が行くのを見て、その昔、沙弥満誓が詠んだ歌、
世の中を何にたとへん朝ぼらけ漕行船の跡の白波(拾遺・沙弥満誓)
人生を何にたとえよう。それは朝方に漕ぎ行く舟の跡の白波だ。つまり、人生はそういう虚しいものだと歌ったという、その沙弥満誓の歌を思い出し、恵信僧都源信が
「ああ…たしかにそうだ。歌も、時には悟りを開く助けになるのだ」
そう言って涙を流したという話があるように、
「だから、私たちもここ浮御堂に遊んで、涙を流しましょう」
などと言っていると、主人が、
「興が乗じて訪ねてきた客を、どうて興が冷めたからと帰すでしょうか。もっと楽しんでもらいます」
そう言って、さっき宴会をした岸の所でふたたび宴会となり、月は、比叡山横川に傾こうとしていました。
鎖あけて月さし入れよ浮御堂
(浮見堂の鍵を開けて、月の光をさし入れてくだい。そして一千体の仏さんたちを月の光で照らしてください)
やすやすと出ていざよふ月の雲
(ためらいもなくやすやすと出てきた月が、出てきたはいいものの、雲にかくれたりして、ぐずぐずと、いざよっているよ)
「いいですねえ先生、では私が脇を」
舟をならべて置渡す露
(琵琶湖の湖上には何艘も舟が並んでいる。その舟の上には露がおりている)
これは主人の茂兵衛成秀が脇句を付けました。続いて、弟子たちが三十六続けて、歌仙を巻き、大いに場が盛り上がりました。
元禄四年(1691年)八月十六日のことと記録されています。
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