静岡 宇津ノ谷峠と梶原山公園を歩く

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こんにちは。左大臣光永です。コンビニなんかで「フォーク並び」ってありますよね。一列に並んで、たとえば三つレジがあったら直前で空いたレジにつくっていう並び方。私はあれがニガテです。何となく空いているレジにすーーっと並んでしまい、実は後ろに列があって、「並んでんだよ」「割り込むなよ」と怒られたことが何度かあります。私はいつもブツブツ独り言言ったり考え事しながら歩いているので、あまり目の前に集中力が向かないんですよね…。フォーク並びなら、ちゃんと、「列はこちら」とかハッキリ書いてほしいと思います。

さて本日は静岡の宇津ノ谷峠と梶原山公園を歩きます。先日、静岡で講演した際、同志社大学OB会静岡支部の方に案内していただきました。

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宇津ノ谷峠は古くからの東海道の難所で、『伊勢物語』はじめ多くの歌に詠まれる歌枕の地です。

梶原山公園は梶原景時終焉の地です。どちらも高い山の上なので、気合入れて登りました!

蔦の細道・宇津ノ谷峠

道の駅「宇津ノ谷」近くに蔦の細道の東口があります。ここから登っていきます。



鬱蒼とした山道ですが、登山道として整備されています。途中湧き水もあります。



蔦の細道の名の由来は、『伊勢物語』の在原業平の歌にあります。

駿河なる宇津の山辺のうつつにも夢にも人にあわぬなりけり

東国への旅の途中、宇津ノ谷峠を通る在原業平(とおぼしき主人公)が、都に残してきた愛しい人にあてて詠んだ歌です。

中世以降の文人たちは、『伊勢物語』の歌の世界を追体験しようと、ここ蔦の細道を通り、宇津ノ谷峠を越えました。


中にも阿仏尼は有名です。阿仏尼は藤原定家の息子・為家の側室です。為家の死後、息子為相が相続するの土地を、正妻の息子・為氏が俺のもんだと文句をつけてきたのです。

それは納得できない。その土地はわが子為相のもんよと、阿仏尼は裁判で決着をつけるため、単身京都から鎌倉へ向かいます。その旅の道中と鎌倉滞在中のことを書いたのが『十六夜日記』です。

宇津の山越ゆる程にしも阿闍梨の見知りたる山伏行きあたり 夢にも人をなど昔をわざとまねびたらん心地して、いとめずらかに、をかしくも、あはれにも、やさしくも覚ゆ。急ぐ道なりといえば文もあまたはえ書かず、ただやむごとなきところ一つにぞ、おとづれ聞ゆる。

わが心うつつともなし宇津の山夢路も遠き都恋ふとて

つたかへでしぐれぬひまも宇津の山涙に袖の色ぞこがるる

今宵は、手越といふ所にとどまる。なにがしの僧正とかやの上りとて、いと人しげし。宿りかねたりつれど、さすがに人のなき宿もありけり。廿六日。藁科(わらしな)川とかや渡りて、興津の浜にうち出づ。

出ました。山頂です。



在原業平の歌碑が立っています。人もいないので、思いっきり声を出して『伊勢物語』を暗誦してきました。

ゆきゆきて駿河の国にいたりぬ。宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、蔦かへでは茂り、もの心細く、すずろなるめを見ることと思ふに、修行者(すぎやうざ)あひたり。「かかる道は、いかでかいまする」といふを見れば、見し人なりけり。京に、その人の御もとにとて、文かきてつく。

駿河なるうつの山辺のうつつにも夢にも人にあはぬなりけり

東国への旅の途中、主人公「男」は宇津ノ谷峠で、都で顔見知りの修験者に会うのです。こっちはまだ東国への旅を続ける。向こうは都に戻るところです。ならばと男は都にいる知人への文をことづけます。

うつの山辺という地名のとおり、うつつにも、夢にもあなたにお会いできないのです。会いたいという気持ちを託した歌です。その人の「御もとに」とあるので文を送る相手は目上の人とわかります。もしかしたら在原業平が、藤原高子に送った文かもしれません。

ここからは下り坂になります。下り切ると、蔦の細道西口です。



ここで右に折れ、木和田川(きわだがわ)沿いに歩いていきました。公園が整備されていて、お弁当を食べるにはぴったりです。家族連れの姿がちらほら。

道沿いに木のパネルがあり、中世の文人の歌が掲げてありました。

夢路にも馴れしやと見るうつゝにはうつの山邊の蔦ふける庵

(『玉葉和歌集』藤原俊成)

都にもいまや衣をうつの山夕霜はらふ蔦の下道

(『新古今和歌集』藤原定家)

袖にしも月かかれとは契置かず涙は知るや宇津の山越え

(『新古今和歌集』鴨長明)

ひと夜ねしかやの松屋の跡もなし夢かうつつか宇津の山ごえ

(『兼好法師歌集』兼好法師)

峠を下ると道の駅「宇津ノ谷」の脇に出ます。ここから国道1号線を少し行くと、下りの坂道があり、宇津ノ谷の集落に出ます。



御羽織屋

旧東海道をはさんで、古い町並みが続き、いい雰囲気です。どの家も屋号を記した看板をぶら下げてます。その中に「御羽織屋」と呼ばれる石川家は、中を見学することができます。



天正18年(1590年)豊臣秀吉が小田原攻めの時、ここ石川家に滞在し、主人の心づくしの接待に感謝した秀吉が陣羽織を残したということです。その陣羽織はすっかり変色しほころびながらも、今も残されています。陣羽織を前に、おばあさんが、その言われを活き活きと説明してくれました。その語り口が、実によかったです。昔ながらの、囲炉裏のそばで老人が子供に語り聴かせる昔話のような。しみじみと、よい語りでした。

梶原山公園

翌日は梶原山公園に登りました。



梶原山公園はJR静岡駅から車で約50分。うねうねした山道をひたすら登っていきます。

私はこぢんまりした小山をイメージしてたんですが、小山なんてとんでもない。高い高い山でした。


梶原景時は後三年の役で源義家の下で戦った鎌倉権五郎景政の子孫です。鎌倉権五郎景政は後三年の役の時右目を射ぬかれながら活躍した豪胆な人物です。鎌倉の御霊神社に祀られています。その景政の子孫が梶原景時です。源頼朝の懐刀として政治力をふるい、重く用いられましたが、二代頼家の時代には周囲にうとまれ、しだいに居場所を失っていきます。

正治元年(1199)鎌倉の御家人66人が「梶原は出ていけ」と連判状を作り、将軍頼家に提出します。これを受けて梶原はいったん所領地である相模国一宮(神奈川県寒川町)に引きこもります。その後、一度は鎌倉に復帰しましたが、御家人たちはさらに梶原追放令を出し、梶原の屋敷を叩き壊します。

「もはや鎌倉にワシの居所は無い…」

梶原は鎌倉を去りました。

翌正治二年(1120)、梶原景時は一族33名で東海道を西へ向かっていました。

何をしようとしていたのか?なぜ東海道にいたか?それは不明です。京都で鎌倉とは別の将軍を打ち立て、鎌倉と対抗しようとしていた、という説もあります。

駿河清見関に差し掛かった所、鎌倉方の庵原(いはら)・飯田(いいだ)・吉川・渋河・船越・矢部など、現在の清水区の地名を名字に持つ武士たちに取り囲まれ、激しい合戦となりますが、その場で三男の景茂が討たれ、景時は嫡子景季と次男景高とともに山中に駆け込み、自害し、梶原一族33名の首は路上に懸けられました。

梶原の討たれた駿河国は北条時政の領地だったので、北条時政の陰謀とする説が濃厚です。

ちなみに梶原を討った武士の一人吉川は、承久の乱(1221)で活躍し、後に安芸(広島)に赴任し、その子孫が戦国時代の毛利氏の一族・吉川氏となります。

梶原一行は敵と戦い戦い、大内、鳥坂を過ぎ、狐が埼(静岡県曲金付近)にまで至りますが、気が付くと後に続く味方の姿はありませんでした。

「ああ…味方はもう一騎も残っていないではないか…」

そこで引き返し、この山に登る時、梶原は馬の足跡をごまかすため後ろ向きで登ったと伝えられます。


よく晴れていたので静岡の街並みがよく見渡せました。


眼下に東名高速道路と新幹線とJR東海線。向こうに駿河湾と三保の松原。その向こうにはうっすらと伊豆半島の影が横たわって見えます。右手には日本平。左手には薩た峠…があるはずですが、薩た峠は手前の山に隠れて見えませんでした。富士山はこの時期は霞に曇って見えないようです。冬のよく晴れた日は見渡せるとうことでした。

公園一帯にアブがやたらと飛んでいました。梶原景時の亡霊が、「来るなー」とでも言ってる感じです。

明日は、清見寺と、西園寺公望公の別邸「坐漁荘」を訪ねます。

本日も左大臣光永がお話しました。ありがとうございます。
ありがとうございました。

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