「山鹿燈篭祭り」の熊本県 山鹿を歩く

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こんにちは。左大臣光永です。

鳩は自転車が突っ込んできても、なかなか逃げないですね。それは全速力で突っ込んでいけば逃げるんですが、逃げるか逃げないかギリギリの所で、余裕を出しているのが、微笑ましいです。

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本日は熊本県山鹿を歩きます。熊本県北部の山鹿は、小倉と熊本を結ぶ参勤交代道・豊前街道の宿場町として栄えました。


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現在も江戸時代や大正時代の面影漂う古風な街並みが残っています。

また山鹿は湯の町としても知られ、明治初期から親しまれてきた「さくら湯」はじめ、町中いたる所に温泉があります。


そして山鹿といえば、山鹿灯篭祭りです。


8月15日、16日に行われる山鹿灯篭祭りは、和紙のみで作った金灯篭を頭にかぶった浴衣姿の女性たちが夜の町を練り歩く、幻想的な祭りとして有名です。

大宮神社

菊池川に沿った国道三号線を車で進みます。満々たる田園風景です。見えてきました。大宮神社です。


大宮神社は12代景行天皇を主祀神に、阿蘇大神ほか数柱の神を祀ります。山鹿燈篭祭りを主催している神社です。景行天皇が九州巡行の際に行宮を置いた場所の跡に建てられたと言われます。

景行天皇が菊池川を溯られ、山鹿にお着きになった時に、霧で曇っていたために道がよくわからなかった。そこで村人が松明を灯して景行天皇をお迎えした。その松明の光が、山鹿燈篭の始まりとされています。

景行天皇はヤマトタケルの父君です。

石の鳥居をくぐり石段を登り…黒木造りの風格ある楼門をくぐります。


正面が拝殿です。見事な注連縄です。しっかり拝んでいきましょう。



境内の灯篭殿には、山鹿燈篭祭りに使う、燈篭と、三十六歌仙絵が奉納されています。三十六歌仙絵。藤原公任が選んだ歌人三十六人を江戸初期の絵師・土佐光興が描いたものです。


山鹿燈篭祭りで使う山鹿燈篭はすべて紙と糊だけで作られます。


木材や金属は一切使いません。だからとても軽いです。頭の上に乗せる燈篭は金燈篭(かなどうろう)と呼ばれます。えっ、金でできた燈篭?山鹿の女性は首が強いんですね~なんて言われますが、別に金で作ってあるわけでなく紙です。軽いです。

そして金燈篭のほかに、座敷造り、宮造りと言われる、神社や寺など、さまざまな建物をペーパークラフトのように作った、るものがあります。



ぬしは山鹿の骨なし灯籠
ヨーヘイホー、ヨーヘイホー

骨も無ければ肉も無い
ヨーヘイホー、ヨーヘイホー

……

山鹿燈篭は夜明かし祭り
ヨーヘイホー、ヨーヘイホー

よへほ節にあわせて、女性たちは優雅に踊ります。景行天皇の昔を思いながら、見学したいところです。


拝殿裏手にある数々の摂社も、風格があります。苔むして鳥居に涼しい風が吹き抜けて、いい感じです。サルタヒコの神を祀った、石碑がずらりっと並んでます。サルタヒコの石碑数ではここ大宮神社は九州一を誇ります。


サルタヒコは天孫降臨の時、神々の先導をして道案内した道祖神で、九州一円で広く信仰されています。

足手荒神。


手足の形の板に名前を書いて奉納すると、悪い所が治るとして、信仰されています。

ツクヨミノミコトを祀ったツクヨミ神社。ウサギの石像の上に碑が建っているのが、味わい深いです。


目の神である生目(いきめ)神社など、さまざまな摂社がありました。


大宮神社を後に、旧豊前街道に入ります。雰囲気のある通りです。



豊前街道は、豊後街道と並び、主要な参勤交代のルートでした。初代肥後細川藩主・細川忠利公は小倉から豊前街道を通って熊本に入られました。


そして山鹿に滞在し、山鹿の温泉をたいそう気に入り、その後何度も訪れたということです。宮本武蔵を誘って一緒に温泉に入ったなんて話もありますが、本当でしょうか。

山鹿灯篭民芸館

山鹿灯篭民芸館は銀行を改装した建物です。


ここにも山鹿燈篭の実物とさまざまな資料が展示されています。



頭の上に乗せる金燈篭のほか、座敷造り、宮造りと言われる、神社や寺など、さまざまな建物をペーパークラフトのように作ったもの。屋根瓦も、一枚一枚紙なんですね。精密です。


展示室の中央に平安神宮の応天門。法隆寺五重塔、法隆寺金堂が展示され、その周りを取り巻くように日本全国の、そして熊本の歴史的建造物の灯篭が並んでます。

明治神宮が。上野東照宮があります。金閣寺があります。熊本の建物としては、昨年の震災で崩れた熊本城の宇土櫓(うとやぐら)、阿蘇神社の楼門。

おっこれは…水前寺成趣園の「古今伝授の間」ではないですか。


細川幽斉公(藤孝)が、後陽成天皇の弟君の八条宮智仁(はちじょうのみや・としひと)親王に『古今和歌集』の伝授を行った建物を大正元年、現在の水前寺公園正面に移したものです。

全国的にはまったく知名度は無いですが…やはり熊本民としてはこれがあると嬉しいですね。

茅葺屋根の萱までも紙で再現してあるのが、驚きです。紙をクルクルッと巻いて、ストロー状にして、それをいくつも突き刺して、茅葺屋根に仕立ててあります。気の遠くなる作業だなぁと、つくづく思いました。

山鹿灯篭民芸館を後に向かった先が。

護国山金剛乗寺。


平安時代初期の創建と言われる真言宗の古刹です。「西の高野山」とも言われました。凝灰岩の丸い石門「月輪門(がちりんもん)」、


異国情緒漂い、ひときわ目を引きます。正面にドーンと大きな銀杏の木。苔むした弘法大師像。


右手に山門があり、山門の左あたりからぼごぼごっ、ぼごぼごっ。ものすごい音がしてます。


何事かと思ったら。


噴き出してるんですね。山鹿の温泉が。ぼごぼごっ、ぼごぼごっ。夜もすがらこの音聞くのも…どんな風情なんでしょうか。

八千代座

ちょっと歩くと八千代座です。


八千代座は明治43年(1910)山鹿の旦那衆によって建造された芝居小屋です。升席、桟敷席、花道、奈落、スッポンなどを備え、江戸時代の歌舞伎座の様式をよく残しています。

のぼりの竹竿が風に揺られて、ギシギシギシギシ音を立てているのが、いかにも芝居小屋の風情です。提灯の紋がいかします。カタカナの「ヨ」の周りに八つの「チ」が取り巻いて、「ヤチヨ座」です。


公演日以外は中を見学でき山鹿燈篭踊りの実演をやってます。私は今回、はじめて山鹿燈篭踊りを生で見ました。



いや~優雅ですね。



女性二人がペアになってヨーヘイホー、ヨーヘイホーの掛け声にあわせて踊る。しみじみ、美しかったです。夢の世界って感じでした。いいものを見せてもらいました。


私は一度も山鹿燈篭祭りに行ったことが無いんですよ。だって、なかなか行けない、幻のお祭りです。

なぜ幻か。

山鹿は駐車場が少ないから、車が停められないんですよ。まして山鹿燈篭祭りの時はどこにも停められないです。しかも電車もなく、バスも少ない。

そして祭が終わるのは深夜ですから、どこかホテルに泊まらないといけませんが、祭りの時はホテルが予約取れない。

そういうことから、山鹿燈篭祭りをほんとうに楽しもうと思ったら、もう山鹿に住む以外無いと思います。外からなかなか見に行けない。

その稀少性というか、なかなかたどり着けない感じが、山鹿燈篭祭りのもともとの幻想的な美しさと相まって、私は子供のころから、山鹿という町に、一種じわーーと、子供時代の幻想に溶け込んで、にじんでいくような、夢の世界のように、感じていました。


次に山鹿の市街を少し離れ、菊池川・岩野川沿いに古墳を見に行きます。


熊本県北部の菊池川・岩野川沿いには、たくさんの古墳があります。特に、古墳にさまざな模様を描いた装飾古墳が、全国一多い地域です。


前方後円墳です。ほぼ東西に軸を向けて横たわってます。駐車場下りてすぐの所に解説版と、石屋形の複製があって、ちょこっと階段のぼると、視界が開けます。石室の入り口があります。残念ながら中には入れませんが…古墳の大きさを実感できます。


クジラの背中のような、いいカーブを描いています。周囲ではウグイスが鳴きしきり、いい雰囲気でした。

オブサン古墳

チブサン古墳から1分ほど歩いた所にオブサン古墳があります。



こちらは円墳です。さっきのチブサン古墳より、やや小さいです。ひばりがチピチピ鳴いて、いい風情です。名前はわかんないですが、紫の小さな花が古墳の表面に咲き乱れてました。


オブサン古墳を塞いだ蓋になっていた石が展示されていました。西南戦争の時の銃弾の跡が残ります。なにもこんな所で戦争やらなくてもって気が。



オブサン古墳・チブサン古墳のそばには西福寺(さいふくじ)古墳群があります。このあたりに戦国時代に栄えた中世の寺院があったため、西福寺(さいふくじ)古墳群と命名されました。こまごました墓の跡がたくさんあります。オブサン古墳・チブサン古墳に葬られている人のご家来衆でしょうか?

日輪寺

菊池川沿いの古墳群から国道3号線に戻り、さらに北上。吉田川を渡ると、曹洞宗日輪寺があります。


赤穂浪士ゆかりの寺です。はじめ天台宗の寺院として建てられましたが、菊池氏12代・菊池武時によって曹洞宗の寺として再興されました。風格のある楼門にしみじみ見とれながらくぐると、緑が目にまぶしいです。

山門くぐって左手に赤穂義士遺髪塔。


元禄赤穂事件(元禄15年(1703))後、大内良雄はじめ17名の赤穂義士は白金(東京都)の熊本藩下屋敷に預かりとなりました。堀内伝衛門は義士たちが切腹するまでの50日間、接待役を務めましたが、その堀内伝衛門が、義士たちの遺髪をおさめたものです。

藩主・細川綱利公自ら赤穂義士を迎えて、武士の鑑だと称賛したということです。

赤穂義士遺髪塔の周囲には、菊池武時手植えと言われる槇の木や、


松尾芭蕉を記念して地元の俳人が立てた「蛍塚」があります。


己が火を木々の蛍や花の宿

木々の蛍は、自分の火を花として、その花の宿に宿っているようだ。うーん…いい雰囲気ですね。

境内には、赤穂義士を接待した、堀内伝衛門夫婦の墓と伝えられる五輪の塔や、


山の上に超巨大なおびんづる様の像。昔は中に入れましたが、震災で危なくなったので今は入れません。


境内裏手に「湯町(ゆまち)橋」…


石づくりの眼鏡橋があります。文化11年(1814)築造。もともとは旧豊前街道が吉田川を渡る山鹿口に架けられていたものが、昭和49年河川の改修にともなって、ここに移されました。


全体が苔むして石の所々から草が生えて、しかも周りはツツジが満開で、石と、草花の調和が、見事な色彩を作り出していました。

それにしても。こういうモノが、震災の影響をまったく受けずにそのままの姿で残っているのが驚きです。昔の技術というのはスゴいんですね。


本日は、熊本県山鹿を歩きました。山鹿燈篭祭りに、八千代座に、菊池川沿いの古墳群と、山鹿は見どころの多い所です。熊本を訪れた際にはぜひ山鹿まで足を延ばしてみてください。

本日も左大臣光永がお話ししました。
ありがとうございます。ありがとうございました。

次の旅「八代を歩く

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