熊本県八代を歩く
初夢はいかがでしたか?私は漫画形式の夢でした。漫画形式。つまりコマ割りがあって、吹き出しがあって、音声が無く、一コマ一コマ読み進んでいくのです。内容はぜんぜん覚えていませんが、とにかくその表現技法におどろかされました。
本日は熊本県 八代を歩きます。
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八代は熊本県南部・球磨川の河口にあり、古くから貿易港として栄えました。幾重にも走る掘割と薩摩街道に沿って町が広がり、今も城下町の面影がしのばれます。
八代城跡
JR肥薩線 八代駅下車。徒歩30分。八代城跡の石垣が見えてきました。
元和元年(1615)江戸幕府は一国一城令を出しました。しかしその後も熊本藩は薩摩への守りとして熊本城と麦島城(八代市古城町)の、一国二城体制が認められていました。
しかし元和5年(1619)、麦島城は地震で倒壊します。その後、熊本藩主加藤忠広(ただひろ)の命令で加藤家家臣・加藤正方により麦島城にかわって築城されたのが八代城(松江城)です。
元和8年(1622)完成。寛永9年(1632)加藤家が改易になると、かわって小倉藩主・細川忠利が熊本藩主となり、忠利の父忠興(=三齋)が八代城主となります。正保2年(1646)忠興が没すると、藩主細川光尚(みつなお・みつとし)は細川家筆頭家老・松井興長(まつい おきなが)に八代城を預けました。
以後、松井氏が代々八代城城代をつとめ、明治3年(1870)廃城となるまで続きました。
石垣には八代産の石灰岩を用い、その白さから白鷺城と呼ばれました。また地名から松江城とも呼ばれました。
本丸には四層五階大天守・二層二階小天守が渡り廊下で結ばれ、七棟の櫓が立ち並んでいました。しかし寛文12年(1672)の落雷・明治維新後の打ちこわしにより、それらは無くなり、現在は石垣と内堀、本丸内の枯山水庭園の一部、八代城時代の井戸が残るのみです。
八代宮
八代城本丸内は八代宮という神社になっています。
明治13年(1880)創建。征西将軍・懐良(かねなが・かねよし)親王を祀ります。
懐良親王は後醍醐天皇の皇子。九州に下って南朝の旗印となり、菊池一族とともに九州の北朝勢力と戦いました。
西山宗因 歌碑
本丸北側の虎口(こぐち)には西山宗因(にしやま そういん)の歌碑が立ちます。
雪見よと兼ては植えし浦之松
雪を見ようということで以前から植えてあった八代海沿岸の松であるなあ。
西山宗因は加藤正方の家臣でしたが、加藤家改易後、大坂に出て、連歌師・俳諧師として活躍しました。滑稽な作風に特徴のある檀林派の祖となりました。松尾芭蕉や井原西鶴に影響を与えました。
松井神社。八代城北側の県道250号線に面します。
境内は八代城北の丸跡です。細川三斎の後、八代城代となった松井興長・その父康之を祀ります。
正保2年(1646)肥後細川家二代藩主・細川忠興は、ここ八代城北の丸にて83歳で没し、荼毘に付せられました。
名木・臥龍梅(がりょうばい)。細川三斎が「八代から百花の魁となるような人材いでよ」と願いをこめて自ら植えたと伝えられます。
傍らの臥竜梅碑は、松井家十二代当主・松井敏之が建てたものです。
何物驪龍 化作老梅
頷珠粲爛 花光爭開
嗟此厥初 先公所栽
人中之傑 花中之魁
相傳相承 世闘芳來何物か驪龍(りりょう) 化して老梅と作(な)る
珠を頷み粲爛(さんらん) 花光爭いて開く
ああこれ、その初 先公の栽(う)ゆる所
人中の傑 花中の魁(さきがけ)
相い傳い相い承(う)け 世々芳來を闘はす
どんな番いの龍が、変化してこの老梅となったのか。
玉をふくんで輝かしく花と光が争うように花開いている。
ああこれこそが、八代城の歴史のはじめに細川三斎公が植えたものなのだ。
細川三斎公は人の中の傑物であり、この梅は花の中の魁だ(他の花々に先駆けて春一番に咲く)。
後世にその遺徳を伝えよう。後世の人々はこうした素晴らしい先人に立派さを争うべきだ(先人に恥じない者であるべきだ)
神社北の市立八代第一中学校の敷地内には細川忠興が建立した織田信長供養塔があります。
松浜軒
松浜軒は元禄元年(1688)第四代八代城代・松井直之が、母崇芳院(すうほういん)のために造営した御茶屋です。
松浜軒という名前は、当時、八代海に近く松並木があったことによります。
5月から6月にかけて咲く、ヒゴバナショウブの名所として知られています。
八代駅東、徒歩30分に八代神社があります。
八代神社は北極星と北斗七星を神格化した天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と国常立尊(くにのとこたちのみこと)を祀ります。地元では「妙見さん」として親しまれています。
創建は平安時代末期と伝えられ、代々の八代領主の信仰を集めました。明治の神仏分離令により八代神社と改名されました。
社殿は屋根は入母屋造・正面に千鳥破風が設けられており、境内には神社の由来を書いた亀蛇(きだ)の石碑、寛文12年(1672)に八代の町衆から寄進された六地蔵石幢(せきどう)があります。
11月22・23日に行われる八代妙見祭(やつしろみょうけんさい)では、中国風の獅子舞・神輿・9基の笠鉾・亀蛇(きだ)が神幸行列をなして練り歩きます。九州三代祭の一つに数えられます(他は長崎の諏訪神社おくんち・福岡の筥崎宮放生会)。
亀蛇はいわゆる玄武のことで、中国の想像上の生物です。八代では「ガメ」とよばれ、中国から妙見神が亀蛇に乗って八代に飛来したという伝説に基づきます。
懐良親王御陵
八代神社から南へ10分。小川に面して、懐良親王の御陵があります。
足利尊氏と対立した後醍醐天皇は、1336年、吉野に逃れ、南朝を開きます。一方、自分に万一のことがあった時のため、日本各地に自分の皇子たちを送っていきました。
鎌倉には成良(なりよし)親王を。奥州には義良(のりよし)親王(=後村上天皇)を。
そして九州に送られたのが当時7歳だった懐良(かねよし)親王です。
懐良親王は12年の歳月の末、肥後に到着。菊池氏十五代・菊池武光に迎えられました。懐良親王は緑川河口の宇土(うと)から川をさかのぼり、菊池一族の居城・菊池城に近い内裏尾に迎えられました。
懐良親王をお迎えして以後、菊池氏は一貫して南朝を支持し、九州の北朝勢力と戦いました。懐良親王の御所のあった菊池の内裏尾は「征西府」と呼ばれました。懐良親王と菊池武光は息のあった絶妙のコンビでした。
1365年、菊池一族は大宰府を落城させ、征西府は菊池から大宰府に移ります。しかし7年目の1372年、九州探題・今川了俊の攻撃により大宰府は陥落。菊池武光は高良山(福岡県久留米市)の陣中で没しました。
菊池一族は菊池に戻り反撃の機会をうかがいますが、8年後の1381年、菊池城も落城しました。懐良親王は二度と京都に戻ることなく、54歳で没しました。
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八代将軍徳川吉宗、田沼意次時代、松平定信時代、11代将軍徳川家斉の大御所時代を経て、天保14年(1843)に水野忠邦が失脚するまで。江戸幕府後半約130年間の歴史の流れを32話に分けて解説した音声つきdvd-romです。好評につき再入荷しました。詳しくはリンク先まで
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