山の辺の道を歩く(一)
本日は奈良県天理市から桜井市にかけての「山の辺の道」を歩きます。
山の辺の道は大和盆地の東の山麓を縫うように、奈良市街から天理を通って桜井まで続く日本最古の道。
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(『古事記』『日本書紀』に記されているため、「史書に記録された日本最古の道」とされる)
奈良市街から桜井までの約35キロのうち、とくに天理から桜井にかけての約16.5キロは、古道のおもかげを残し、ハイキングコースとしても親しまれています。
道中、『古事記』『日本書紀』『万葉集』にみえる古い寺社や古墳が点在し、万葉歌碑が立ち、四季折々の景色もすばらしいです。
石上神宮
JR桜井線(万葉まほろば線)もしくは近鉄天理線の天理駅下車。天理駅目抜き通りのすばらしいイチョウ並木を見ながらタクシーかバスで約10分。
石上神宮(いそのかみじんぐう)前につきます。
石上神宮の名は古く『古事記』『日本書紀』にみえ、桜井市三輪の大神神社とならび日本最古の神社といわれます。
石上神宮は大和王権の武器庫であり、朝廷の軍事部門を担当する物部氏の氏神となり、一族の信仰を集めました。
御祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)、布都斯魂神(ふつしたまのかみ)、三柱をあわせて石上大神(いそのかみのおおかみ)とします。
布都御魂大神は神武天皇が東征の時に用いた剣、ほかの2つも剣であり、当社が「武」と関わりの強いことを感じさせます。
御神体は背後の布留山であり、当初、拝殿はなく、山を直接拝む形でした。『古事記』履中天皇伝には天皇の弟、スミノエナカツミコが反乱をおこした時、天皇が石上神宮に逃れて反撃の策を練ったことが書かれています。
境内に入ると、鶏が多いことに驚きます。
ケッコケッコ、そこら中で鳴いています。「天の岩戸」神話で、岩戸に引きこもったアマテラスオオミカミを引き出す時、「常世の長鳴き鳥」を鳴かせて、闇をはらい光が訪れたことを告げた、ことにちなみます。
文保2年(1318)創建の楼門をくぐると、
白河天皇が宮中の御殿(神嘉殿)を移したという拝殿があります(2021年3月現在、工事中)。
石上神宮に安置された御神宝として、「七支刀(しちしとう)」が有名です。刀身の左右に三本ずつ枝が突き出した刀で、4世紀に百済王から倭王に贈られたものと考えられています。通常非公開ですが、ごくまれに特別公開をやるようです。
出雲武雄神社
楼門わきの丘の上に摂社の出雲武雄(いずもたけお)神社。出雲武雄神と草薙剣を祀ります。
ここの拝殿はもと、石上神宮から南800mほどの所にあった内山永久寺の鎮守、住吉社の拝殿でした。
明治の廃仏毀釈で内山永久寺が断絶し、住吉社も荒廃していたのを大正3年(1914)拝殿を移築したのです。
中央に通路のある「割拝殿」とよばれる珍しい様式で、この様式としては日本最古のものです(鞍馬寺境内の由岐(ゆき)神社の割拝殿が有名)。
石上神宮の境内から、「山の辺の道」が南にのびているので、進んでいきます。傍らに僧正遍昭の歌碑。
さとはあれて人はふりにしやどなれや
庭もまがきも秋ののらなる
僧正遍昭
(『古今集』巻第四 秋歌上)
800メートルほど山の辺の道を南に行くと、内山永久寺跡の池と案内板があります。
内山永久寺は鳥羽天皇の勅願により永久年間(1113-18)創建と伝わる石上神宮の新宮寺で、
『太平記』には後醍醐天皇が吉野遷幸の途中、立ち寄り、行在所(臨時の御所)である「萱(かや)の御所」をもうけました。
大和では東大寺・興福寺・法隆寺につぐ寺領を有し、その規模の大きさと格式の高さから「西の日光」「大和の日光」とまで言われましたが、
明治の廃仏毀釈でことごとく破壊され、仏像・仏画・経典などは国内外に離散しました。寺跡は池になっています。
寺社歩きをしているとあちこちに「明治の廃仏毀釈」の傷跡を見て、痛ましい気持ちになります。
詳しくはこちらで解説しています
↓↓
歴史解説 明治の廃仏毀釈(24分)
https://youtu.be/iIOI8Xt38Yc
池のほとりに芭蕉句碑。
うち山やとざましらずの花ざかり
(内山寺の花盛りの素晴らしさを土地の人たちはよく知っているが、よそ者は知らない)
さっき石上神宮内にあった出雲武雄神社の拝殿は、内山永久寺の鎮守、住吉社の拝殿を大正3年(1914)に移築したものです。
夜都伎神社
古道と山里の、風情あふれる中を歩いていきます。
夜都伎(やとぎ・やつぎ)神社は昔から奈良の春日社(春日大社)と縁が深く、春日社とおなじ春日四神を祀ります。
春日四神…
武甕槌命(タケミカヅチノミコト)、
経津主命(フツヌシノミコト)、
天児屋根命(アメノコヤネノミコト)、
比売神(ヒメガミ)
明治維新までは夜都伎神社から春日社へ「蓮のお供え」と称する神饌を献上し、春日社からは社殿と鳥居を下げられました。
鳥居は嘉永元年(1848)に奈良の春日若宮から下されたもの。本殿は明治39年(1906)改築で、茅葺きのめずらしいものです。
境内で地元の方々が一生懸命清掃されていました。どっから来なすったね~と、気さくに声をかけてくださいました。
道すがら、菜の花畑が見事です。
しばらく歩くと竹之内環濠集落が見えてきます。
大和国は南北朝時代から戦国時代にかけて戦乱が相次いだため、人々は集落のまわりを濠で囲み、自衛しました。これが環濠集落です。
今も濠の一部が残り、当時のおもかげを今に伝えます。
町は静かでとても趣があります。今回のコースからは外れますが、「稗田の環濠集落」も有名です。
衾田陵
通りから少し脇道にそれて、
衾田陵(ふすまだりょう)は全長220mの前方後円墳。
6世紀の26代継体天皇の后、手白香皇女(てしらかのひめみこ)の陵とされるものです。他にも山の辺の道の周辺は大小の古墳が点在します。
道すがら柿本人麻呂の歌碑。
衾道を 引手の山に
妹を置きて 山路を行けば
生けりともなく
柿本人麻呂
(『万葉集』巻2-212)
(衾道を歩いて引手の山(龍王山)にのぼり妻を埋葬して山道を戻ってくると、悲しみのあまり生きた心地がしない)
長岳寺
長岳寺は花と文化財の寺。
天長元年(824)淳和天皇の勅願により空海が開いたとされる真言宗寺院。釜口山(かまのくちさん)長岳寺と号します。
山の辺の道のほぼ中間地点になります。
長岳寺は鎌倉時代には興福寺大乗院の末寺となり、戦国時代の戦火にあうも、江戸時代初期に復興し、僧兵300、宿坊48、広大な寺領を有しましたが、明治の廃仏毀釈で衰退しました。
境内には鎌倉時代につくられた楼門、
江戸時代初期の地蔵堂(本堂)(工事中でした)…ここに安置される阿弥陀三尊像は日本ではじめて玉眼を入れたものです。
大師堂、
鐘楼、
数々の石仏が残り、往時の寺のにぎわいがしのばれます。
大和国の戦国時代の土豪、十市遠忠(とおち とおただ)は長岳寺に深く帰依して、
えにしあれや長岳寺の法の水
むすぶ庵もほど近き身は
次回に続きます。
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次の旅「山の辺の道を歩く(ニ)」