山の辺の道を歩く(二)崇神天皇陵~大神神社

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こんにちは。左大臣光永です。

昨日から奈良県天理市から桜井市にかけての「山の辺の道」を歩いています。

山の辺の道は大和盆地の東の山麓を縫うように、奈良市街から天理を通って桜井まで続く日本最古の道。

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(『古事記』『日本書紀』に記されているため、「史書に記録された日本最古の道」とされる)

奈良市街から桜井までの約35キロのうち、とくに天理から桜井にかけては、古道のおもかげを残し、ハイキングコースとしても親しまれています。

道中、『古事記』『日本書紀』『万葉集』にみえる古い寺社や古墳が点在し、万葉歌碑が立ち、四季折々の景色もすばらしいです。

崇神天皇陵

前回「山の辺の道を歩く(一)石上神宮~長岳寺」からつづきです。

長岳寺を後に、山の辺の道を南に歩いていくと、

行灯山(あんどんやま)古墳が見えてきました。

全長242mの巨大前方後円墳で、10代崇神天皇陵「山辺道勾岡上陵(やまのべのみちのまがりのおかのへのみささぎ)」に比定されます。

10代崇神天皇の時、天下に疫病がはやり、天皇が祈ると夢に三輪の大物主神があらわれ、わが子孫を見つけて神官として、我を祀れとお告げがありました。

言われたとおり、意富多々泥古(オオタタネコ)なる人物を見つけ出して神主として、神の山たる三輪山を祀らせました。

また神聖な多くの土器を作らせ、天神地祇(てんじんちぎ。天つ神・国つ神)を神社をつくり祀らせました。

これによって疫病はしずまり、国は平和に民は豊かになりました。

つくづく天皇家とは、疫病を鎮め民の暮らしをやすらけくする役割を代々になってきたのだと、実感させられます。

コロナ禍の現在だからこそ、崇神天皇の事績は心に留めたいものです。

崇神天皇陵を後に、ふたたび山の辺の道を歩いていきます。

どんどん歩いていきます。

山里の風情が胸にしみます。

崇神天皇陵の南約1キロの渋谷村に、全長約300mの前方後円墳。

12代景行天皇陵「山辺道上陵(やまのべのみちのへのみささぎ)」と比定される、渋谷向山(しぶたにむこうやま)古墳です。

4世紀の古墳としてはわが国最大規模です。

景行天皇はヤマトタケルの父で、『古事記』にはヤマトタケルに命じて九州の熊襲や東北の蝦夷を討伐させたとありますが、『日本書紀』にはヤマトタケルの遠征に加えて天皇自身の九州、東国への行幸が描かれています。

大和三山が見わたせる見晴台

景行天皇陵の北側の山の辺の道沿いに道が分岐して、大和三山が見渡せる高台に至ります。

素晴らしい景色でした!

向かって右手前に景行天皇陵、中央手前に箸墓古墳。そのむこうに、右に畝火山と耳成山、距離を置いて左に天香久山。天香久山のむこうに明日香の里が広がり…。

背後には金剛山と葛城山がそびえます。

『万葉集』に大和三山が三角関係である天智天皇の歌がありますが、こうして見ると、畝火山と耳成山は相思相愛なかんじで向かい合ってますね。それを背の低い天香久山がいいなーとうらやましがってるようで…香久山に勝ち目はなさそうです。

香久山は 畝火ををしと 耳梨と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を あらそふらしき

『万葉集』巻1-13

香久山は畝傍山のことを愛しいといって耳成山とお互いに争った。神代の昔からそのようであったようだ。昔もそうであるのだから、今の世も妻をめぐって争うようだ。

朝、雲海の中で見たらさぞ感激するでしょう!

東の方を見やると三輪山が見事にそびえています。

古代の昔から神の山=神奈備山として信仰されてきた三輪山。その圧倒的な存在感。

三輪山といえば額田王のあの歌…いい感じのところに歌碑が立ってます。

額田王、近江の国に下る時に作る歌

味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際(ま)に い隠るまで 道の隈(くま) い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放(さ)けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや

三輪山を しかも隠すか雲だにも 心あらなも 隠さふべしや

『万葉集』巻1-17、18

三輪の山は、奈良の山々の山の間に隠れるまで、道の角がいくつも重なるまで、じっくりと、三輪の山を見ながら行きたいのに、何度も、見やりたいその三輪の山を、心ないことに、雲が隠すなんてことがあって、いいものか。

三輪山をいったいそんなふうに隠すものだろうか。雲よお前に心があるなら、三輪山を隠すなんてことがあっていいものか。

近江の国に下る…667年、天智天皇により飛鳥から大津京に遷都。

檜原神社

さらに南へ進んでいきます。

檜原(ひばら)神社は大神(おおみわ)神社の摂社で、大神神社と同じく三輪山をご神体とし、

本殿も拝殿もなく、三ツ鳥居が立つのみです。

御祭神は天照大神であり、末社の豊鍬入姫宮は天皇皇女で初代斎宮の豊鍬入姫(とよすきいりひめ)を祀ります。

10代崇神天皇の御代、天下に疫病が流行しました。そこで、天照大神をそれまで宮中で祀っていたのを、皇女である豊鍬入姫(とよすきいりひめ)によって、「倭笠縫邑(やまとのかさぬいむら)」に祀らせました。

それがこのあたりと伝えられ、11代垂仁天皇の御代に伊勢に遷るまで、この地に天照大神が鎮座ましましました。伊勢に遷ってからもこの地は「元伊勢」「桧原神社」として大切にされてきました。

豊鍬入姫は初代の斎宮とされます。

周辺の眺めはすばらしく、西にみえる二上山はとくに存在感を放っています。

平安時代初期の玄賓僧都が隠棲したと伝える庵です。

重要文化財の木造不動明王座像が伝わり、枯山水の庭園があり石仏が立ち並びます。謡曲「三輪」の舞台として知られます。

大和国三輪山の麓に庵をむすぶ玄賓僧都のもとに、毎日女が閼伽水(あかみず。仏様に供える水)をもってくる。

玄賓が不思議に思い女の素性をたずねると、秋の夜寒をしのぐ衣をくださいというので与える。

すると女は「我が庵は三輪の山本恋しくは訪(とぶら)ひ来(き)ませ杉立てる門(かど)」と古歌を詠んで立ち去った。

玄賓僧都が女の歌を頼りに三輪の明神のそばまで訪ねていくと、二本の杉の木にさきほど女に与えた衣がかかっていた。

もしや女の正体は三輪の明神であったか!

そこへ女姿の三輪の明神があらわれ、僧都と三輪の明神は一晩中語らい、神楽を奏して別れた…そんな話です。

狭井神社

この先、山の辺の道は大神神社の境内に入ります。

狭井神社は狭井川の南に位置し、古くから疫病を鎮める神として信仰されてきました。

「狭井」とは神聖な泉や湧き水を指し境内の薬井の水は万病にきくといわれます。

本社の大神神社が大物主神の和魂(にぎみたま)を祀るのに対し、ここ狭井神社は大物主神の荒魂(あらみたま)を祀ります。

「和魂(にぎみたま)」「荒魂(あらみたま)」とは神道における神の魂のありようを指す言葉です。「和魂(にぎみたま)」は神の優しく、平和な側面のこと。「荒魂(あらみたま)」は神の荒々しく戦闘的な側面のことです。

大物主神は一方で水や命をもたらす恵みの神であり、一方で疫病をもたらす恐ろしい神として描かれています。このように、同じ神の2つの側面を「和魂」「荒魂」という言葉で呼んでいるわけです。

大神神社は大和盆地の東南に位置する、わが国最古の神社の一つです。

祀神は三輪の大物主神。御神体の三輪山は、古くから神のいます山、神奈備山(かむなびやま)として信仰されてきました。

本殿はなく、拝殿から三ツ鳥居を通して、正面の三輪山を拝む形で、わが国最古の神祭りの形を今に伝えています。

拝殿は寛文4年(1664)四代将軍徳川家綱の時造営。通常の神社と違って拝殿の向こうに本殿はなく、三ツ鳥居を通して、正面の三輪山を拝む形です。

三ツ鳥居の先は禁足地で立ち入ることができません。山に登るには神社の許可が必要になります。

大物主神 三輪山伝説

大物主神は蛇の神・水の神・雷の神・酒の神と、さまざまな性質を持つ神さまで、『古事記』『日本書紀』に登場します。

特に有名なエピソードは、活玉依毘売(イクタマヨリビメ)のもとに夜這いした話です

遠い昔、イクタマヨリビメというたいへんな美人がありました。一方、ここに男がありました。その姿かたち、立ち居振る舞い、まことに立派で、比べるものもありませんでした。

この男が、ある晩イクタマヨリビメの寝床に訪ねてきました。

「きゃっ!」

「しっ、驚かせてしまってすまぬ」

しかし男がイケメンだったので、イクタマヨリビメは男を受け入れ、二人は結ばれました。

こうして男は、毎夜、イクタマヨリビメのもとに通っているうちに、イクタマヨリビメはみごもりました。

父と母がイクタマヨリビメに尋ねます。

「お前はどうして身ごもったんだい」

「実は…とても美しい若者があって、名前も知らないんですが、
その若者が毎夜私の寝床に通ってきて、一緒に暮らしているうちに、身ごもったのです」

「相手は誰なんだ!」

「それが…名前もわからないんです」

「そんなお前…」

そこで両親は一計を案じました。

娘に命じて、赤土を床の前に撒き散らせました。そして麻糸を用意させ、糸の先の針を、こっそり男の衣の裾に刺させたのです。

そうすれば、男が帰っていった後、するすると糸がのびていくのを追って、男の行き先がわかるわけです。

床の前に撒き散らした赤土が男の足の裏についていることで、その男だと、特定できるという作戦です。

その晩、娘は作戦を実行に移しました。

朝になると、糸はすーーと伸びていて、鍵穴から外に出ていました。糸巻きにはほんの三巻ぶんしか糸が残っていませんでした

つまり、男は鍵穴から外に出て、かなり遠くまで行ったことになります。

娘は糸をたどっていくと、糸は三輪山について、神の社のところで終っていました。

「まあ…あの方は神様だったのだわ!」

糸巻きに三巻の糸が残っていたことから、その地を名付けて三輪というようになりました。

大神神社から南200mほどの所に、三輪山平等寺があります。

三輪山平等寺はもと平等寺といい、聖徳太子開基とも空海開基とも伝わります。

鎌倉末期から明治初期までは大神神社の新宮寺であり、同時に江戸時代まで興福寺の末寺でもありましたが、明治の廃仏毀釈で寺は断絶しました。

しかし廃仏毀釈の直後、有志により翠松庵(すいじょうあん)と号して曹洞宗寺院として再興され、さらに昭和52年(1977)曹洞宗三輪山平等寺として再興されました。

慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の合戦で、島津義弘軍が戦場を落ち延びて(いわゆる「島津の退き口」)、平等寺に逃れ、70日間滞在した後、薩摩に帰還しました。そのため薩摩藩では幕末まで平等寺を大切にし寄進をおこたりませんでした。

境内に聖徳太子の像が立ちます。

崇神天皇磯城瑞籬宮跡

三輪山平等寺のそばに10代崇神天皇の皇居である磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)跡。

聖なる山、三輪山を背後に負い、ふもとには古代の市、海石榴市が広がり、大和平野を見渡す高台に、宮はありました。

繰り返しになりますが、

崇神天皇の時、天下に疫病がはやり、天皇が祈ると夢に三輪の大物主神があらわれ、わが子孫を見つけて神官として、我を祀れとお告げがありました。

言われたとおり、オオタタネコなる人物を見つけ出して神主として、神の山たる三輪山を祀らせました。

また神聖な多くの土器を作らせ、天神地祇(てんじんちぎ。天つ神・国つ神)を神社をつくり祀らせました。

これによって疫病はしずまり、国は平和に民は豊かになりました。

金屋(かなや)の集落のはずれに「金屋の石仏」を安置したコンクリート製の収蔵庫があります。

二体の石仏がおさめられ、右が釈迦如来、左が弥勒菩薩とされ、平安時代初期から鎌倉にかけてのものと推測されます。

海石榴市跡

このあたりを金屋(かなや)といい、7世紀から「海石榴市(つばいち)」という市が立っていました。

金屋は三輪・石上を経て奈良に向かう山の辺の道や、飛鳥に向かう磐余(いわれ)の道、大坂河内和泉からの竹内(たけのうち)街道、初瀬へ向かう初瀬(はつせ)街道が集まる場所で、また大坂難波からの水運もあり、古代から交通の要衝でした。そのため、市も発展しました。

春や秋に若い男女が集まって求婚の歌を詠みあった「歌垣」が行われた場所としても有名です。

また海石榴市のあたりは都の玄関口でした。推古天皇16年(608)遣隋使の小野妹子が、隋の使い裴世清と下客(しもべ)12人を伴って帰国した時、朝廷ではこの地で「錺(かざ)り馬」75疋を仕立てて迎えたとあります。

(小野妹子一行は、難波の海から大和川をさかのぼってここ海石榴市で上陸し、朝廷の使いに迎えられて、飛鳥の小墾田宮で推古天皇に拝謁した)

平安時代に入ると海石榴市は伊勢詣、長谷寺詣の宿場町として賑わいを見せます。

海石榴市の賑わいは『日本書紀』『万葉集』『源氏物語』『枕草子』『雨月物語』などに描かれています。

初瀬川に出ました。川沿いが金谷河川敷公園として整備されています。

仏教伝来之地碑が立ちます。

29代欽明天皇の時代、百済の聖明王が日本にヌリシチケイを使者として遣わし、正式に仏教が伝えられました。

年は『日本書紀』では552年ですが聖徳太子の伝記(『上宮聖徳法皇定説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』)には538年とあります。

その後、仏教の受容をめぐって蘇我氏と物部氏の間で争いになったことはよく知られているとおりです。

金屋から城島(しきしま)小学校にかけての一帯が欽明天皇の皇居、磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)があったところと伝え、

当時の日本国の称号であった「しきしまの大和」という言葉もここから来ています。

2回にわたって山辺の道を歩きました。いかがだったでしょうか?

山辺の道は古道の風情がすばらしく、『古事記』『日本書紀』『万葉集』にしるされた古い寺社、古墳が点在し、万葉の昔に踏み入っていくような感覚があります。

今回は天理から桜井に歩きましたが、逆に桜井から天理に向けて歩いても、違う風景がみられて、よいです。

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次の旅「逢坂の関跡

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