雑司ヶ谷を歩く
本日は東京・雑司ヶ谷を歩きます。
雑司ヶ谷は古き良き東京の風情の残る町です。明治・大正・昭和の文学者や著名人の眠る雑司ヶ谷霊園、雑司ヶ谷宣教師館、大鳥神社に雑司ヶ谷鬼子母神。池袋の繁華街のすぐ隣でありながら、落ち着いた風情が楽しめます。
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JR池袋駅東口から明治通りに出て、目白方面に少し進み、左にジュンク堂書店が見えたら右隣のあづま通りに入ります。
騒がしい明治通りとはガラリと雰囲気がかわり、古き東京の風情が出てきます。
青空をバックにサンシャイン60と豊島区役所ビルが映えます。
都電の線路を渡るとすぐに雑司ヶ谷霊園です。
雑司ヶ谷霊園。総面積10万6000平方メートルの敷地内に、明治大正昭和の文豪や著名人の墓が多く見られます。
夏目漱石、
永井荷風、
泉鏡花、
竹久夢二、
島村抱月、
ジョン万次郎、東条英機…
管理棟事務所で地図をもらえるので、地図を片手に歩くのがおすすめです。
私は若い頃、毎晩のようにここ雑司ヶ谷霊園で発声練習していました。夜の墓場は声が通って気持ちいいのですよ。サンシャイン60が見えるのも、最高です。もし墓地の真ん中に家が建っていたら、住みたかったです。
夏目漱石『こころ』に、雑司ヶ谷霊園は印象的に描かれています。
墓地の区切り目に、大きな銀杏(いちょう)が一本空を隠すように立っていた。その下へ来た時、先生は高い梢を見上げて、「もう少しすると、綺麗ですよ。この木がすっかり黄葉して、ここいらの地面は金色の落葉で埋まるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。
夏目漱石『こころ』
雑司ヶ谷宣教師館
雑司ヶ谷霊園中心部から東南に徒歩約5分。雑司ヶ谷宣教師館があります。
雑司ヶ谷宣教師館。
アメリカ人宣教師J.M.マッケーレブが明治40年(1907)建てた自宅兼・布教所です。現存する豊島区内最古の近代洋風建造物です。木造コロニアル風総ニ階建て。19世紀後半のアメリカ郊外住宅の建築様式です。
ジョン・ムーディー・マッケーレブは1861年、アメリカテネシー州ナッシュビル郊外の生まれ。子供の頃、南北戦争で両親を失い、27歳でケンタッキー州レキシントンのカレッジ・オブ・バイブルに入学。先輩宣教師の影響で日本伝導を決意。
1892年、32歳で日本に渡り、東京の各地でキリスト教の教えを広めました。1907年より雑司ヶ谷に移住。以後34年間、雑司ヶ谷を拠点に伝道活動を行いました。1941年、太平洋戦争のはじまる直前に帰国しました。
外からみると洋館ですが、家の中は天井の格子部分に竹が使われたり、日本的なものが所々に取り入れられています。
二階には明治の雑司ヶ谷の模型が展示してあります。昔は畑とたんぼだけだったんです。こんなにもにマンションが立ち並ぶとは、マッケーレブ氏も思わなかったでしょう。
都電荒川線の線路まで戻ります。線路脇に、大鳥神社。
正徳2年(1712)、出雲藩主松平出羽守の嫡男が疱瘡にかかりました。それで千歳橋近くの高田村の下屋敷で療養していました。出雲国鷺大明神に祈ったところ、治りました。
それで感謝して、鬼子母神境内に出雲国鷺大明神を勧請したのが始まりです。
明治の神仏分離令で雑司ヶ谷鬼子母神と切り離され、神社となりました。毎年11月の酉の市は賑わいます。
私は若い頃、境内でよく発声練習しました。お世話になりました。
雑司ヶ谷鬼子母神堂
大鳥神社を後に住宅街の中を東に少し進むと、
雑司ヶ谷鬼子母神堂です。
途中、建物の合間に東京音楽大学のカッコいい建物が見えます。
雑司ヶ谷鬼子母神堂は、正式には法明寺鬼子母神堂。室町時代の永禄4年(1561)今の文京区目白台あたりで掘り出された鬼子母神像を、武芳(たけよし)稲荷の境内に移したのが始まりとされます。
本殿・幣殿・拝殿の3つからなり、本殿は寛文4年(1664)四代家綱の時、安芸広島藩主浅野光晟(あさの みつあきら)の正室による寄進です。
本殿あたりから、サンシャイン60と豊島区役所ビルがカッコよく見えます。
鬼子母神のゆらいはあまりに有名です。その昔、インドに訶梨帝母(カリテイモ)なる女神がいました。王舎城の夜叉神の娘でたくさんの子がいました。
しかし訶梨帝母は凶暴でした。近所の幼児をさらっては、食いまくっていました。そこでお釈迦様は、訶梨帝母の過ちをやめさせようと、その末の娘を隠してしまいます。
ああわが子はどこへ行ったの!嘆き悲しむ訶梨帝母。そこでお釈迦様は言うのです。千人いる子のうち一人を失ってもそれほど悲しいのだ。まして子を奪われた親の気持ちはどうであろうと。
そこでカリテイモはそれまでの過ちに気づき、お釈迦様に帰依し、安産・子育ての女神として信仰されるようになったということです。
ここ雑司ヶ谷鬼子母神の鬼子母神像は、鬼の形ではなく角のない美しい菩薩の姿をしていることから、「鬼」の字の上の「ツノ」をはぶいて、「雑司ヶ谷鬼子母神」と表記されています。
上川口屋
境内の上川口屋は創業1781年の老舗の駄菓子屋。
昔なつかしい駄菓子を商っています。1781年といえば天明元年。十代将軍家治のもと、田沼意次が台頭し、天明の飢饉があった頃です。そんな昔から!歴史が生きてますね!
以前は店先にのんびり猫が寝てたんですが…最近では見られなくなったのが寂しいです。
雑司ヶ谷鬼子母神堂の西隣には鬼子母神大門(きしもじんだいもん)欅並木(けやきなみき)があります。
風情のある通りです。私は学生時代、何百回通ったかわかりません。
通りの途中の路地の奥には、手塚治虫の下宿跡があります。以前は案内板があったのですが…今は無くなったようです。
法明寺
雑司ヶ谷鬼子母神から北へ200メートルほど行ったところに法明寺があります。
嵯峨天皇の御代の弘仁元年(810)に真言宗の寺院として創建されました。はじめ威光寺といいました。
正和元年(1312)日蓮上人の弟子・日源上人によって日蓮宗「法明寺」に改められました。江戸時代には代々の将軍の尊崇を受けました。関東大震災で倒壊したりや昭和20年の戦災で焼けましたが、そのたびに再建され、今に至っています。
この法明寺の参道が広々してなんとなくいい空気なんですよ。私は大学時代、このへんが帰り道だったので、なつかしいです。目白から雑司ヶ谷を経て池袋の自宅まで戻っていました。法明寺の参道は特に、大学時代の思い出がこみ上げて、しみじみします。
次回は愛知の犬山城を歩きます。お楽しみに。
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京都で声を出して読む 小倉百人一首
2/24(日)開催
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66番前大僧正行尊~
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