船岡山・織田信長を祀る建勲神社を歩く

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本日は「船岡山・織田信長を祀る建勲神社を歩く」です。

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船岡山は平安京北方にある小高い丘です。平安京の朱雀大路(現千本通り)の真北に位置することから、平安京を造営する際の南北軸の基準点とされたと言われます。古くから葬送の地として知られます。また応仁の乱で西軍の陣地が置かれました。現在、山全体が公園として整備されています。


来ました。船岡山山頂です。


木々の切れ間に京都市街…特に西陣一帯が見渡せます。


おっと…大文字山の「大」の字が目の前に。気分いいです。


大声で『平家物語』を暗唱しました。それにしても日差しが強烈です。調子に乗ってワアワアいってると熱中症になるので、適当なとこで切り上げます。

船岡山の歴史

船岡山は平安京北方にある小高い丘です。山頂から京都市街…特に西陣一帯が見渡せて、景色がいいです。清少納言『枕草子』に「丘は船岡」とその名が挙げられています。

平安時代の貴族が宴遊の場としました。

その一方、船岡山は死者を送る、葬送の地としても知られます。『徒然草』137段に「鳥部野、舟岡、さらぬ野山にも、送る数多かる日はあれど、送らぬ日はなし」と記されています。

保元元年(1156)保元の乱に崇徳上皇方について敗れた源為義と為義の息子たちが、勝利した後白河天皇方についた源義朝によって処刑された場所でもあります。

応仁の乱では西軍(山名宗全方)が陣を敷き、東軍(細川勝元方)を迎え撃ちました。

葬送の地であり、保元の乱、応仁の乱と血塗られた歴史を歩んできた場所ですので、心霊スポットとしても知られています。なんか出るらしいです。

船岡山西側には織田信長・信忠父子を祀る建勲(たけいさお)神社があります。正面に拝殿。奥に本殿と並びます。




建勲(たけいさお)神社は明治時代に、織田信長・信忠を祀って建てられた神社です。

天正10年(1582)6月2日。

明智光秀は京都本能寺に、主君・織田信長を襲撃しました。

「これは謀反か!いかなる者の企てぞ」

「明智という者の仕業のようです」

「なに光秀が…!ならば、是非も無い」

ばっ。

信長はみずから弓矢を取ると、

ぎりぎりぎり

びょう

ぎりぎりぎり

びょう

二つ三つと弓を取り換えながら矢を放ちますが、

どの弓も弦が切れてしまいます。

今度は槍を手に防ぎ戦いますが、

肘に槍傷を受けたので、退きます。

信長は、敵に最期の姿を見せまいとしたのが、御殿の奥深くへ入り、内側から納戸の戸を閉めて、

人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。
ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか


幸若舞の「敦盛」を舞ったとか舞わないとか。

こうして信長は自害しました。

享年は「人間五十年」に一年足らぬ49でした。

本能寺には信長の供回り50人ばかりいましたが、全員、討ち死にしました。遺骨は、見つかりませんでした。

(ちなみに現在の本能寺とは場所が違います。本能寺の変の時の本能寺は四条西洞院あたりにありました。本能寺の変で燃えたので、現在の寺町通御池に移されました)

信長の嫡男・信忠は、宿泊先の妙覚寺(京都市右京区)で明智光秀謀反の知らせを受けます。

「こうしてはおれぬ!!」

すぐに信忠は本能寺に向かおうとしますが、すでに本能寺は焼け落ちたとの報告。

この上は明智軍が攻め寄せてくるのは時間の問題。

そこで妙覚寺から、より守りの固い二条御所に籠って明智軍を迎え撃ちますが…

光秀の猛攻の前に、どうにもなりませんでした。

「私が腹を切ったら、遺体は縁の下に隠せ」

そう言って、家来に介錯を命じて、自害しました。

享年26。

信長愛用の甲冑や刀剣が安置されているということですが、中を見ることはできません。今川義元から奪って生涯愛用した「左文字の刀」も、ここにあるはず。

また、織田信長が足利義昭を奉じてはじめて上洛したのが永禄11年(1562)10月19日ですので、これを記念して、毎年10月19日には船岡祭(ふなおかさい)が開かれています。

櫟谷七野(いちいだにななの)神社

船岡山のふもと西南に広がる住宅街の一角に、櫟谷七野(いちいだにななの)神社があります。道が入り組んでます。


何度か京都に旅行した時に行こうと試みましたが、挫折しました。それくらい、道がわかりにくいです。今回、はじめてたどりつくことができました。



このあたりは、賀茂神社にお仕えした「賀茂の斎院」の御所の跡とされます。地名が紫野なので、「紫野斎院」と言われました。



賀茂の斎院とは、皇室の未婚の女子(内親王・女王)が上賀茂神社下鴨神社にお伝えした…一種の巫女のようなものです。伊勢神宮にお仕えした「伊勢の斎宮」に対して「賀茂の斎院」もしくは「賀茂の斎王」と言います。

810年、平城上皇はすでに弟の嵯峨天皇に位を譲っていましたが、どうしたわけか、もう一度天皇の位につき、都を平城京に戻そうと画策します。嵯峨天皇はこれをいち早く察知。将軍坂上田村麻呂に命じて各地の道路を封鎖。平城上皇の野心を未然に食い止めました(平城太上天皇の変)。

「国家の危機からよくぞ守ってくださいました」

嵯峨天皇はそういって感謝して、皇女である有智子(うちこ)内親王を上賀茂神社・下鴨神社に巫女として捧げ、国家安泰を祈らせました。これが「賀茂の斎院」のはじまりです。

「賀茂の斎院」は占いによって選ばれ、病気で斎院を下るほかは、天皇が崩御しても下ることはありませんでした。毎年四月に行われる賀茂祭(葵祭)で、賀茂の斎院は斎院を出御し、勅使の行列とともに上賀茂神社・下鴨神社に参拝しました。その晩は上賀茂神社に一泊し、翌日、また行列をなして斎院に帰っていきました。その、斎院が帰っていく道行きも「賀茂の帰(か)えさ」と呼ばれ、人々は競って見物しました。

歴代の「斎院」の中からは選子(せんし・のぶこ)内親王(村上天皇皇女)や百人一首に歌を採られてた式子(しょくし・のりこ)内親王(後白河法皇皇女)など、すぐれた女流歌人も出ました。紫野の斎院の御所には五百人もの役人や女房が仕え、一大サロンの様相を呈していたといいます。

後鳥羽上皇皇女・礼子(れいし・いやこ)内親王が斎院の最後です。その後は財政難により斎院は廃止されました。

当社は浮気封じや縁切り・縁結びにご利益があるとされ、社殿前に白砂を山形に積んで祈願する、めずらしい形です。


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