奈良 高畑周辺を歩く(旧大乗院庭園・志賀直哉旧居・新薬師寺・白毫寺)
私は東京の多摩で6年間、古典・歴史講座をやってたんですが、帰り道、中央線で秋葉原まで出て、ガード下の焼き鳥屋で食べるのを常としてました。マズいんです!どうやったら焼き鳥をこんなにもマズく焼けるのか、驚くほどでした!絶対にマズく焼いてやるぞという固い信念でやってるような、そんな類のマズさでした。それでいて、大繁盛です!味とは。商売とは。いろいろ考えさせられました。
本日は奈良の高畑(たかばたけ)周辺を歩きます。
高畑は奈良公園の南に広がる閑静なエリアです。東に春日山の原始林、北に春日の社(春日大社)が接し、かつては春日の社の神官たちの社家町でした。今も古都奈良の風情が残ります。
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旧大乗院庭園
近鉄奈良駅から徒歩約15分。奈良ホテルの南に広がるのが、旧大乗院庭園です。
かつてこのあたり一帯は興福寺の塔頭・大乗院の敷地でした。一乗院・大乗院はともに藤原氏の子弟が門跡をつとめ、大いに栄えました。
大乗院ははじめ、寛治元年(1087)現在の奈良県庁舎のあたりに置かれました。治承4年(1180)平重衡の焼き討ちにより焼失。現在地に移されました。
室町時代に火事で焼失するも、大乗院門跡・尋尊によって再興され、寛正6年(1465)から将軍足利義政の命により作庭の名手・善阿弥による作庭が始まりました。長享3年(1489)までに建物・庭園をふくめた伽藍が完成しました。
その頃には将軍足利義政はじめ公家たちが見物に訪れ「南都随一の名園」と讃えられました。江戸時代も豊かな経済力を背景に、建物の増築などが行われましたが、明治初頭の廃仏毀釈により大乗院は廃され、その跡地は奈良ホテルや飛鳥小学校となりました。
現在、発掘調査に基づき江戸時代末期の姿に復元されています。
庭園南の名勝大乗院庭園文化館は、大乗院の模型、関係資料などが展示されています。庭園をぼーっと眺めて休憩するのも、よいです。
春日山へ向かう坂道に沿った住宅地に、志賀直哉旧居があります。
白樺派の作家志賀直哉は大正14年(1925)京都山科から奈良幸町の借家に移り、昭和3年(1928)奈良高畑に自ら設計して邸宅を建て、翌昭和4年から昭和13年(1938)まで住みました。
屋敷は数寄屋造りを基本に、洋風のサンルームや食堂がある、和洋折衷の造りが特徴的です。
東に春日山の原始林、北に春日の社を通して飛火野の芝生が広がり、春日社の神官たちの住んだ社家町があり、柳生街道(滝坂の道)の入り口に当たり、白毫寺や新薬師寺にも近く、はるかに生駒山も望まれる、風光明媚の地です。
直哉の邸宅には武者小路実篤や画家の梅原龍三郎(うめはら りゅうざぶろう)など多くの文化人が出入り一大文化サロンの様相を呈しました。
直哉はこの地で尾道時代から取り組んでいた大作『暗夜行路』の後編を完成させ、『万暦赤絵』『晩秋』『山科の記憶』などを発表しました。しかし奈良の古い文化や自然の中で時代遅れになりつつある自分を感じ、また子供の教育のために、昭和13年(1938)東京に居を移しました。
現在、応時の姿に復元され、奈良文化女子短期大学セミナーハウスとして保存し、一般公開されています。
東京落合の林芙美子邸を思い出しました。私小説って現在はほとんど死滅したジャンルですが、昔は売れてたんですね…
新薬師寺
新薬師寺は天平19年(747)光明皇后が夫・聖武天皇の病気平癒を祈願して建立した華厳宗の寺院。
または聖武天皇が光明皇后の眼病平癒祈願のために建立したとも。(「新」は「あらたか」の意で、「新しい」ではない)
宝亀11年(780)の落雷で伽藍のほとんどが焼け、唯一焼け残った食堂(じきどう)が、以後、本堂になっています。本堂らしからぬ本堂…と思ったら、そういうことなんですね。
そのほか鎌倉時代の東門・南門・地蔵堂・鐘楼などがあります。本堂は入母屋造・本瓦葺き。
内部は円形の土壇の上に本尊の木造薬師如来坐像を中心に十二神将立像がまわりを取り巻きます。十二神将像は一躯をのぞいて天平時代のもので、特に伐折羅大将(ばさらたいしょう)の怒髪天をつく迫力ある表情は有名です。
毎年4月8日の「おたいまつ(修二会)」では篝火で本堂を囲み、法要が行われます。
鏡神社
新薬師寺の鎮守の社。新薬師寺のすぐ隣です。本殿は春日大社の延享3年(1746)第47回式年遷宮の際、本社本殿の第三殿を譲渡したと記録されています。
比売(ひめ)神社
鏡神社の摂社。壬申の乱で破れた大友皇子の后、大海人皇子と額田王の娘である十市皇女(とおちのひめみこ)を祀ります。
奈良市高畑町におすまいのご夫婦が個人で建てた神社だそうです。
672年壬申の乱は十市皇女にとって、父(大海人皇子)と夫(大友皇子)の争いでした。結果は父である大海人皇子の勝利。夫である大友皇子(弘文天皇)は自害しました。十市皇女は生き残り、父である大海人皇子=天武天皇に引き取られ、飛鳥の宮で6年を生き、678年、亡くなりました。
紙像石(かむかたいし)
弘文天皇(大友皇子)のひ孫淡海三船が曽祖父弘文天皇を顕彰したと伝わります。淡海三船は日本初の漢詩集『海風藻』の編者です。
高円山白毫寺(こうえんざん びゃくごうじ)は若草山・春日山につづく高円山(たかまどやま)の中腹にある真言律宗の寺院。
天智天皇の第七皇子で桓武天皇の祖父、志貴皇子の離宮跡を寺にしたと伝わります。白毫とは、仏の眉間にあるという光を放つ白い渦巻状の毛のことです。
有名な志貴皇子の『万葉集』の歌。
石走る 垂水の上の 早蕨の 萌えいづる春に なりにけるかも(巻8・1418)
(石の上をほと走る滝のほとりの蕨が萌えいづる春になったものだなあ)
鎌倉時代に西大寺の僧叡尊が中興し、弟子道照が宋版一切経をおさめたので、一切経寺と呼ばれ、奈良の町では「寒さの果ても彼岸まで、まだあるわいな一切経」とうたわれました。
戦国時代の戦火で焼けましたが、江戸時代寛永年間に興福寺の僧・空慶上人によって再興され、幕府から50石を扶持され、栄えました。明治の廃仏毀釈で荒れ果てましたが、その後少しずつ再興され現在に至ります。
展望台からは奈良の町を一望できます。
春は五色椿、秋は萩が咲き、「関西花の寺」25ヶ所の第18番札所(ふだしょ)でもあります。
私が行ったのは11月で、寒桜が見事でした。
本堂裏の収蔵庫には本尊の阿弥陀如来坐像をはじめ、地蔵菩薩立像、閻魔王坐像とその眷属の司命(しめい)像と司録(しろく)像、太山王(たいざんおう)坐像など重要文化財の仏像八躯が安置されます。
閻魔王の本地は地蔵菩薩。恐ろしいだけでなく、ほんとうは人を救いたい慈悲の心を持っておられるんです。
万葉歌碑。
高円(たかまど)の 野辺(のへ)の秋萩(あきはぎ) いたづらに
咲きか散るらむ 見る人無しに(巻2・231・笠金村)
(高円山の野のほとりの秋萩は、空しく咲いて散っているだろうか。見る人がいなくなった後も。志貴皇子の亡くなった時の挽歌につづく短歌)
【残りわずか】日本の歴史 幕末の動乱
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嘉永6年(1853)のペリー来航から、慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の戦いまで語っています。楽しみながら幕末史の流れを学ぶことができます。
日本の歴史~江戸幕府の始まり
https://sirdaizine.com/CD/His08.html
二代徳川秀忠から七代徳川家継の時代まで。
春日局・島原の乱・由比正雪の乱・明暦の大火・徳川綱吉と生類憐れみの令・大石内蔵助と元禄赤穂事件など
江戸時代初期のさまざまな事件や人物について、48話にわたって解説しています。
百人一首 全首・全歌人 徹底詳細解説
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語り継ぐ 日本神話
https://sirdaizine.com/CD/mythDL.html
日本の神話を、『古事記』に基づき、現代の言葉でわかりやすく語った、「語り」による「聴く」日本神話です。
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