唐招提寺を歩く

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こんにちは。左大臣光永です。ゴールデンウィークも終盤となりました。いかがお過ごしでしょうか?

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本日は唐招提寺を歩きます。

唐招提寺は鑑真和上が築いた律宗総本山。「天平の甍」という言葉にふさわしい、青々とした屋根の甍や、どっしりしたエンタシスの柱が、天平文化の息吹を今に伝えています。

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唐招提寺

南大門

前回「薬師寺を歩く」からの続きです。

薬師寺外壁
薬師寺外壁

近鉄橿原線・西の京駅から徒歩10分。

見えてきました。唐招提寺南大門です。

唐招提寺 南大門
唐招提寺 南大門

唐招提寺について

唐招提寺は天平勝宝5年(753)、聖武天皇の招きで来日した鑑真和上が、来日6年目の天平宝字3年(759)、新田部(にたべ)親王の旧宅を賜り、これを仏教の戒律を学ぶ道場としたことに始まります。以来1250年、唐招提寺は律宗総本山として、あり続けています。

金堂

南大門くぐって正面が金堂です。

唐招提寺 金堂
唐招提寺 金堂

天平建築の金堂で唯一現存するものです。「天平の甍」として知られる青々した、そしてどっしり重量感のある屋根。正面に並ぶ八本のエンタシス列柱は、立派でありながら親しみやすい柔らかな雰囲気があります。

唐招提寺 金堂
唐招提寺 金堂

唐招提寺 金堂
唐招提寺 金堂

堂内には座高3メートルの本尊盧舎那仏坐像を中心に、左右に千手観音立像、薬師如来立像、これらをめぐって梵天・帝釈天・四天王立像が配置され、厳粛な空気がかもしだされます。

盧遮那仏の光背に埋め込まれた千体の化仏(けぶつ)は、盧遮那仏の毛穴から吹き出した釈迦の化身です。

鑑真和上とは

鑑真和上は688年揚州江陽県に生まれました。14歳の時父親と大雲寺に行った際、仏像の美しさに心打たれ、その場で僧になることを決意。

18歳で光州の僧道岸から菩薩戒を授けられ20歳で長安に入り以後長安や洛陽で高僧たちから律宗や天台宗の教えを学びます。

25歳の時揚州ではじめて僧侶たちを前に戒律の講義を行い、その見事な教えぶりから「江淮(こうわい)の化主」と仰がれます。

以後講義は430回に及び、鑑真が戒をさずけた僧は、のべ4万人に及びました。

742年、日本からの留学僧、栄叡・普照の招きに応じて日本へ渡ることを決意。五度の失敗を重ね盲目となりながらも、

12年目の753年12月、六度目の航海でようやく日本に到着。

翌754年、鑑真は東大寺大仏殿の前に仏教の戒を授けるための戒壇を築き、聖武上皇、孝謙天皇以下、400人の僧に戒を授けました。これが日本初の戒壇授戒です。

鑑真和上は東大寺で五年を過ごした後、大和上(だいわじょう)の号を賜り、平城京の西の京(右京)に新田部(にたべ)親王の旧宅を与えられ、天平宝字3年(759)ここに仏教の戒律を学ぶための道場を築きました。これが現在の律宗総本山・唐招提寺の始まりです。

天平宝字7年(763)、唐招提寺で入滅。伝記に淡海三船(おうみのみふね)作『唐大和上東征伝』があります。鑑真和上の苦難の旅の様子は井上靖氏の小説『天平の甍』で有名となりました。

戒壇

境内西に石塀に囲まれた戒壇があります。

唐招提寺 戒壇
唐招提寺 戒壇

戒壇とは、仏教に僧侶に正式な僧としての資格を授けるための場所です。この壇の上で儀式を受けてはじめて、正式な僧侶と認めたわけです。

唐招提寺 戒壇
唐招提寺 戒壇

鑑真和上による唐招提寺創建時に作られたと記録されます。地震や火事で堂が倒壊するも、そのたびに復興しました。昭和53年、戒壇中央にストゥーパ(仏塔)が築かれ、現在の形となりました。

東大寺の戒壇院、大宰府観世音寺近くの戒壇院も、あわせて見ておきたいものです。

戒壇そばのショウブが、美しく色づいていました。


講堂

金堂の北の大きな建物が講堂です。

唐招提寺 講堂
唐招提寺 講堂

鑑真和上がこの地に道場をつくるにあたって平城宮の東朝集殿を賜り移築したものです。天平時代の宮殿が現存している唯一の例です。もっとも鎌倉時代の改修工事で、外観がだいぶ鎌倉風なものになってしまいました。

堂内には本尊弥勒如来坐像を中心に、その左右に持国天・増長天のニ天が配置されています。

この弥勒如来は金堂にあった盧遮那仏=釈迦の一番弟子であり、将来仏となることが約束されているので、通常は「弥勒菩薩」というところを「弥勒如来」とします。

用語を整理しておきます。

■如来…悟りを開いて仏になったもの(覚者)。仏像は釈迦の出家後の姿をモデルとし、装飾品をつけない(ただし大日如来は全宇宙をすべる仏の中の仏であり、王者の貫禄として装飾品をつけることが多い)。

■菩薩…如来の弟子であり修行中。将来仏になることが約束されている。仏像は釈迦の出家前の貴人姿をモデルとし、宝冠をかぶり装飾品をつける。

■天…仏教以前のインドの神々が仏教を守護する神とされたもの。さまざまな形をしている。異形の者も多い。

■明王…如来の命令を受けて悪を破る使者。鎧をまとい、憤怒の表情をしていることが多い。

■羅漢…釈迦の弟子たち。十六羅漢・十大弟子像などがある。

おおざっぱな役割と特徴だけでも覚えておくと、寺歩きがいっそう充実したものになるでしょう。

講堂前にある梵鐘のまわりにツツジが美しく咲いていました。ほがらかな気分になりました。

唐招提寺 梵鐘
唐招提寺 梵鐘

芭蕉句碑

石段を上ります。


途中、松尾芭蕉の句碑があります。

若葉して おん目のしずく ぬぐはばや

唐招提寺 松尾芭蕉句碑
唐招提寺 松尾芭蕉句碑

松尾芭蕉が貞享5年(1688)4月、『笈の小文』の旅の中で、唐招提寺を訪れた時の句です。開山堂で和上の像を前に、しみじみと感じ入っているのです。ああ和上、幾多の困難を乗り越え、ついに目の光を失われた。お痛ましいことです。せめてこの若葉で、御目のしずくをぬぐってさしあげたいと。

開山堂

開山堂に来ました。平成25年(2013)に作られた鑑真和上のお姿を写した「御身代わり像」が安置されています。

唐招提寺 開山堂
唐招提寺 開山堂

鑑真和上の像は開山堂の向いにある御影堂に安置されていますが、年間数日しか御開帳されません。そこでふだん見てもらうために、開山堂にかわりの像を置いたのです。

かわりの像、といっても奈良時代の技法を用いての正確な考証に基づいて作られています。鑑真和上のお志を、じゅうぶんに感じ取ることができるでしょう。

御影堂(2018年5月現在、工事中)

境内北側に位置する御影堂(みえいどう)は、もと興福寺の別院・一乗院の遺構で、明治以降は県庁や裁判所の庁舎として使われていましたが、昭和38年(1963)、移築復元されました。

唐招提寺 御影堂
唐招提寺 御影堂

唐招提寺 御影堂
唐招提寺 御影堂

そこへ鑑真和上坐像をおさめて御影堂としました。毎年6月6日の開山忌舎利会(かいさんきしゃりえ。鑑真和上の忌日5月6日を新暦にしたもの)の前後の3日間だけ、内部が公開されます。昭和50年、東山魁夷画伯による障壁画が奉納され、厳粛な空気がよりいっそう深まりました。

平成27年から工事に入りました。オープンには「まだ数年を要します」とのことです。

鑑真和上御廟

では境内東北の林へと歩いていきます。


門をくぐると、鑑真和上御廟です。



鑑真和上御廟
鑑真和上御廟

鑑真和上の伝記『唐大和上東征伝』によれば、和上は天平宝字7年(763)5月6日、唐招提寺にて76歳で入寂。荼毘に付され、境内東北隅のしすがな林の中に葬られたと。

ぱあっと明るい、さわやかな空気に満ちています。


さんさんとふりそぞく木漏れ日が心地よいです。



鑑真和上の御遺徳は、今も変わらぬやさしさで衆生の上に降り注いでいるようです。

宝蔵・経蔵

境内東側には宝蔵・経蔵が北・南に並びます。校倉作りの建物です。特に経蔵は、唐招提寺創建以前の新田部親王の屋敷にあった米倉を改造したと伝えられます。

唐招提寺 経蔵
唐招提寺 経蔵

句碑・歌碑

そのほか、唐招提寺境内にはいくつもの句碑・歌碑があり、気分を高めてくれます。

おほてらの まろきはしらの つきかげを つちにふみつつ ものをこそおもへ 会津八一

唐招提寺 会津八一 歌碑
唐招提寺 会津八一 歌碑

唐招提寺の丸い柱に月の光が差して、地面に影を落としている。それを踏みながら私はさまざまな物思いにふけるのだ。

水楢の 柔き嫩葉(わかば)は み眼にして 花よりもなほや 白う匂はむ 北原白秋

唐招提寺 北原白秋 歌碑
唐招提寺 北原白秋 歌碑

水楢(ブナ科の落葉広葉高木)の柔らかい若葉は(芭蕉の句にあるように)眼にすると、花よりもいっそう白く色づいているようだ?

北原白秋は晩年に視力をほぼ失いました。この歌は芭蕉の句(若葉して おん目のしずく ぬぐはばや)を下敷きに、自分の眼のことも詠んでいるのかもしれません。

本日は唐招提寺を歩きました。「天平の甍」という言葉そのものである金堂。鑑真和上の遺徳をしのぶ戒壇や鑑真和上御廟。いつしか心は天平の昔にいざなわれます。薬師寺や垂仁天皇陵とともに、じっくり時間をかけて歩きたいところです。

次回は南禅寺を歩きます。お楽しみに。

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