こんにちは。左大臣光永です。あけましておめでとうございます。
お正月はいかがお過ごしだったでしょうか?
私は奈良・広島を経て現在、実家の熊本に戻っています。
途中、奈良の東大寺と春日大社で初詣をしてきました。
さて、昨年末に発売した商品
「百人一首 全首・全歌人 徹底解説」
https://sirdaizine.com/CD/Ogura100info.html
こちらの商品にあわせ、百人一首の話題をお届けしてきました。
本日は和泉式部の第六回「中宮彰子のサロン」です。
▼音声が再生されます▼
http://roudokus.com/mp3/Shikibu06.mp3
藤原道長は一条天皇のもとに入内させた長女・彰子に最高の教育をほどこすため、
彰子のまわりに才能豊かな女房たちを集めました。
紫式部、伊勢大輔、赤染衛門、いずれも当時を代表する才英です。
そこへ、和泉式部も入っていったのでした。
「あなたが和泉式部さまですか。
ぜひ直接お話したいと思っておりました」
出仕した和泉式部を直接に応対したのが
伊勢大輔。百人一首61番に
と歌を採られている伊勢大輔でした。
和泉式部が出仕した時、一条院という館に里内裏が置かれていました。
里内裏とは内裏以外の館を臨時の内裏としたものです。
一条天皇の皇后としては彰子より先に
藤原道隆の長女・定子がいました。
清少納言がお仕えしたことで知られる、
中宮定子です。
しかし定子は1001年24歳の若さで亡くなり、
和泉式部が出仕した1009年の時点では
道長の長女・彰子が名実ともに唯一の后となっていました。
さてここで、
和泉式部や紫式部が、どんな場所で暮らしていたのか?
当時の内裏の様子を見ていきましょう。
天皇の御在所のおそばに彰子の部屋があり、
彰子の部屋から少し離れて
女房たちの起居する「局」がありました。
「局」とは、細長い部屋を、「几帳」や「立蔀」という
仕切りで区切った居住空間で、局ごとに五畳くらいの広さがあり、
女房がすまいました。
はっきりと数はわかりませんが、
彰子つきの女房だけで数十人はいたと思われます。
局と外の廊下との間は「半蔀(はじとみ)」という
格子組にした四角い板を戸口としました。
半蔀には日光を採りいれたり風通しをよくする機能があり、
昼間は半蔀を金具で釣り上げ、すだれをたらしました。
女房たちはふだんは局の中で生活し、
彰子のもとに集まる時は廊下へ出て、渡殿をわたって、
彰子の部屋に向かいました。
ある時、内裏で、ある男が女物の扇を見せびらかしていました。
パチリ、パチリと閉じたり開いたり。
(ふふ女から貰ったんだぞ。
俺、モテるだろう!)
…そんな感じでした。
「ほう、誰の扇だい」
「あっ、大殿!いやこれは、その、あはは。
参りましたなあ」
「なにが参りましただ。お前、見せびらかしていただろう。
さあ白状しろ。いったいどこの女からもらったんだ」
声をかけたのは、大殿・藤原道長でした。
道長は権力者ではあっても気さくで、嫌味の無い男でした。
こういうやり取りも高圧的な感じではなく、
じゃれあっているような、気さくさがありました。
「実は大殿、これ、和泉式部の扇です」
「ほほーう和泉式部の!いいなあ。ワシに貸してくれよ」
道長はひょいと扇を取り上げ、筆を取り出し、
さらさらさらと走らせたその文字は、
浮かれ女の扇
そのまま、
和泉式部の局に持って行かせました。
和泉式部は数々の男性遍歴を重ねているという評判だから、
からかってやろうという考えでした。
「大殿ったら失礼なことを!」
和泉式部は筆を取り出し、道長が書いた文字の横に書きました。
越えもせむ越さずもあらむ逢坂(おうさか)の
関もりならぬ人なとがめそ
逢坂の関を越える人もあれば、越えない人もいます。
色恋のことは、人それぞれです。
あなたは関守でもないのに、余計なチョッカイをしないでください。
「ぐぬぬ。やられた。和泉式部の切り返し。
見事なものだなあ」
こんなふうに道長は女房たちをしょっちゅうからかっていました。
ある時、紫式部に歌を送りました。
すきものと名にし立てれば見る人の
折らで過ぐるはあらじとぞ思ふ
(貴女は浮気者として評判ですから、
見る人、見る人、さぞかしみんな、貴女に言い寄ってくるんでしょうねえ)
人にまだ折られぬものをたれかこの
すきものぞとは口ならしけむ
(私はまだ誰にもなびいたことなどありません。
私が浮気者なんて誰が評判を流しているんですか。気分が悪いです)
今なら道長はセクハラ親父として訴えられてしまいますね。
紫式部は、和泉式部についてこのように批評しています。
和泉式部という人とは、趣き深い手紙のやり取りをしました。
ですが、和泉式部にはよくない面があります。
気軽に手紙を走り書きすると、文章の才能を感じる人です。
なにげない言葉にも、艶めいたものが見えます。
歌の詠みっぷりは見事です。しかし歌の知識や理論については、
まことの歌詠みといった風ではなく、
口にまかせて出た言葉に、必ず趣深い一節が
目にとまるといった詠みっぷりです。
それほどの歌人ではあるのですが、
人の詠んだ歌を批判したり解釈しているのを見ると、
それほどのものとも思えません。口をついて自然に
歌が出てくるように見えるたちの人です。
こちらが恥ずかしくなるほどたいそうな歌詠みとは私は思いません。
…いかにも紫式部らしいふにゃふにゃした文体で、
いいと言ったり悪いと言ったり二転三転した挙句、
「まあ、和泉式部の歌は認めます」
そう認めた後で、やっぱり 悔しくなってぐぬぬと歯噛みして紫式部の、めんどくさい女っぷりが文章の上ににじんでいますね。
では紫式部とならび有名な清少納言は、
和泉式部とどういう関係を持ったのでしょうか?
つづき「和泉式部と清少納言」