関ヶ原古戦場を歩く(五)南宮大社~南宮山山頂(毛利秀元 陣跡)~池田輝政 陣跡

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こんにちは。左大臣光永です。

警備員を見ていると、ずーっと一方向を向いて、ちっとも後ろを振り返らない方が多いです。背後からどんどん近づいていって、いつ気づくかなと思ったら、最後まで気づかず素通りしてしまうことが、よくあります。もっと警備はキョロキョロせんといかんと思います。

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本日は、「関ヶ原古戦場を歩く(五)」南宮大社~南宮山山頂(毛利秀元 陣跡)~池田輝政 陣跡まで歩きます。

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前回まで 関ヶ原古戦場を歩く(一)~(三)
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https://sirdaizine.com/travel/Sekigahara2.html
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美濃國一宮 南宮大社

前回からの続きです。吉川広家 陣跡を後に、岐阜県立不破高等学校の前の坂道を下っていきます。見えてきました。南宮大社です。

南宮大社 楼門

南宮大社は美濃国一の宮。祭神の金山彦命(かなやまひこのみこと)は金属・鉄鋼の神。全国の鉱山・金属業の総本宮として信仰を集めています。美濃国府の南に位置するので南宮大社と呼ばれます。

南宮大社 舞殿

社伝によると金山彦命は、神武天皇東征の時、八咫烏を助けて霊験あらたかであったと。そのため、美濃国に祀られ、10代崇神天皇の頃、現在の位置に遷されたと伝えられます。

慶長5年(1600)関ヶ原合戦の戦火で建物は消失してしまいますが、寛永19年(1642)春日局の願いにより徳川家光が再建。明治の神仏分離令により堂塔は他に移され、現在に至ります。

年間を通して50あまりの祭が行われていますが、特に11月8日の金山祭(ふいごまつり)は、金属や刃物に関係した珍しい祭りです。

南宮大社 拝殿

拝殿で参拝を済ませたら、拝殿左手の門から出ます。

聖武天皇大仏建立勅願所

南宮大社 聖武天皇大仏建立勅願所

瓦塚

南宮大社 瓦塚

を左に見ながら、

百連鳥居

南宮大社 百連鳥居

をくぐると、左に南宮山への登り口があります。山頂まで一時間です。

登山道を5分も歩くと道が分岐しており、安国寺恵瓊 陣所跡があります。

安国寺恵瓊 陣所跡

安国寺恵瓊。安芸国安国寺に入り、後に東福寺の住寺となりました。毛利氏の外交僧として知られます。天正10年(1582)羽柴秀吉の高松城攻めの最中に本能寺の変が起こります。その時秀吉は毛利とさっさと和睦し、中央に引き返した、いわゆる「中国大返し」をやってのけたわけですが…その、羽柴と毛利の講和をうまくまとめたのが安国寺恵瓊でした。

本能寺の変の後、毛利が秀吉に下ると、安国寺恵瓊は秀吉政権下の大名とされました。。慶長5年(1600)石田三成が挙兵すると、安国寺恵瓊は主君・毛利輝元を将として大坂城に入れて旗印とし、大谷吉継らとともに三成につきます。

合戦当日は南宮山の中裾に陣取りました。ふもとに陣取る吉川広家が徳川家康に内通しており、合戦の間動きませんでした。それで安国寺恵瓊も最後まで動けませんでした。

西軍敗北と見るや、安国寺恵瓊はいずこかへと逃げ出しますが、京都六条河原に潜伏していた所を捕らえられ、別に捕らえられた石田三成・小西行長とともに六条河原で斬られました。

一ツ松の旧跡

道は険しいですが、時々ベンチがあるので休みつつ登れます。

一ツ松の旧跡。

一ツ松の旧跡

天人降臨の御神木で、『新古今和歌集』伊勢の歌に詠まれています。

おもひ出づや みののを山の ひとつ松 契りしことは いつも忘れず
(新古今・巻第15・恋歌5・1408)

思い出されますか。美濃のお山(南宮山)の一つ松(たった一本生えている松)を。あの松の枝を結んで約束したこと、いつも忘れません。

女流歌人の伊勢がこんな山奥まで来たとはとうてい思えず、地名のごろのよさで詠んだのでしょう。

木花咲耶姫を祀る高山神社、保食神(うけもちのかみ)を祀る子安神社が並びます。

高山神社

子安神社

ここまで来れば、…あと20分くらいです。風がとても涼しいです。

毛利秀元 陣所古阯(南宮山山頂)

山頂展望台につきました。

南宮山山頂

毛利秀元 陣所跡の碑が立ちます。

毛利秀元 陣所跡

毛利秀元は毛利元就の四男・穂井田元清の長男。元就長男隆元の子である輝元とは、いとこ同士です。

毛利秀元・輝元 系図
毛利秀元・輝元 系図

文禄・慶長の役では輝元にかわって朝鮮に赴きました。輝元は子に恵まれなかったため、はじめ秀元を養子としました。しかし後に嫡男秀就(ひでなり)が生まれたため、秀元は周防・長門を与えられました。

合戦当日、秀元は西軍大将毛利輝元の名代として南宮山の山頂近くに布陣しました。ご覧の通り景色のいい所ですが、ここからは関ヶ原は一切見えません。

よく知られている通り、毛利秀元は戦が終わるまで一歩も南宮山から動きませんでした。

「ええい、宰相殿は何をしておられる!」

長宗我部盛親は南宮山の東麓に布陣していたが、まったく動かない毛利秀元に業を煮やし、出撃要請の使いを出したと。その時、毛利秀元は、

「今、兵に弁当を食わせておる」

そう答えたと伝えられます。ここから「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれます。

南宮山ふもとにの吉川広家が動かず、南宮山に足止めされていた事情もありますが、仮に吉川広家が動いたとしても、南宮山山頂から麓まで下りるだけで一時間かかります。おりてる間に戦が終わってそうです。

合戦後、毛利秀元は大坂城にこもって徹底抗戦を主張しますが、容れられませんでした。毛利氏は八カ国120万5000石から周防・長門36万9000石へ大幅に減封されました。毛利秀元は、長門国櫛崎の6万石の領主とされました。

南宮山を下ります。下りのほうが足にこたえますね。住宅街に下りると、秋のうろこ雲が見事でした。

垂井の駅に向かう道すがら、国道21号線沿いに池田輝政 陣跡。

池田輝政 陣跡

池田輝政は信長の重臣・池田恒興の息子。父恒興は天正12年(1584)小牧・長久手の合戦で戦死しますが、父の死後も照政は秀吉政権下で重く用いられます。まず岐阜城を、ついで三河国吉田(愛知県豊橋市)に15万2千石を与えられました。また家康の娘・督姫をめとり、家康と結びつきを強めていました。

関ヶ原合戦でははじめから東軍を支持。前哨戦では福島正則らとともに、かつて自分の城であった岐阜城を攻め落とします。合戦当日は南宮山に布陣する毛利秀元らへの牽制を行いました。

合戦後、功績により姫路52万石に加増・転封されました。

春王・安王の墓

池田輝政 陣跡と同じ場所に、春王・安王の墓があります。

春王・安王の墓

春王・安王は室町時代の鎌倉公方・足利持氏の息子です。

鎌倉公方とは足利将軍家の分家で、関東を治めるトップリーダーです。足利尊氏の息子・足利基氏が初代で、以後世襲されました。

鎌倉公方
鎌倉公方

本来、鎌倉公方は京都の足利将軍家を補佐する立場でしたが、しだいに足利将軍家と対立し、別の動きを示すようになりました。

永享10年(1438)8月、四代鎌倉公方・足利持氏は六代将軍・足利義教に対して関東で挙兵しました。しかし関東管領・上杉憲実が幕府側についたこともあり、ほどなくして鎮圧され、鎌倉の永安寺で自害に追い込まれました。

しかし話はこれで終わりになりません。

二年後の永享12年(1440)、下野の結城氏朝(ゆうきうじとも)が、足利持氏の遺児・春王と安王をかついで挙兵。春王と安王はまだ15、6歳の若者でしたが、二人の名で、関東各地の豪族たちに挙兵を呼びかける檄文が飛ばされました。

結城氏朝は結城城(現茨木県結城城跡)に立てこもり、籠城戦を行いますが、幕府に包囲され、討ち死に。これを結城合戦といいます。ちなみに滝沢馬琴の『南総里見八犬伝』は結城合戦の話から始まります。

そして春王と安王は京都に護送される途中、ここ、美濃の垂井で切られました。

辞世です。

夏草や 青野が原に 咲くはなの 身の行衛(ゆくえ)こそ 聞かまほしけれ 春王丸

身の行衛 定めなければ 旅の空 命も今日に 限ると 思へば 安王丸

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耳で聴く 歴史解説音声
「下剋上と戦国時代の幕開け」「天下統一への道」
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応仁の乱、北条早雲。毛利元就。武田信玄と上杉謙信。鉄砲の伝来、キリスト教の伝来までの「下剋上と戦国時代の幕開け」篇、

織田信長・豊臣秀吉の時代から関ヶ原の合戦、江戸幕府のはじまり、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡し、徳川家康が亡くなるまでの「天下統一への道 信長・秀吉・家康」篇。

詳しい内容解説はリンク先まで。

■10/27 京都講演「声に出して読む 小倉百人一首」
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第四回。33番紀友則から48番源重之まで。会場の皆様とご一緒に声を出して歌を読み、解説していきます。百人一首の歌のまつわる名所・旧跡も紹介していきますので観光のヒントにもなります。

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