『徒然草』より 友人論・友情論

こんにちは。左大臣光永です。1月も半ばの土曜日、いかがお過ごしだったですか?私は実家の熊本に滞在中です。昨日は加藤清正の墓所のある本妙寺に行ってきました。300段の石段の上に槍持ったカッコいい清正像が、熊本市内を見渡してたたずんでるんです。雄大な気分にひたれました。

さて本日は、『徒然草』から、友人論・友情論についてお話していきます。

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理想の友

おなじ心ならん人としめやかに物語して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなく言ひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじければ、つゆ違(たが)はざらんと向ひゐたらんは、ひとりある心地やせん。

たがひに言はんほどの事をば、「げに」と聞くかひあるものから、いささか違う所もあらん人こそ、「我はさやは思ふ」など争ひ憎み、「さるから、さぞ」ともうち語らはば、つれづれ慰まめと思へど、げには、少しかこつかたも、我と等しからざらん人は、大方(おおかた)のよしなしごと言はんほどこそあらめ、まめやかの心の友には、はるかに隔たる所のありぬべきぞ、わびしきや。

『徒然草』第十二段

【現代語訳】

同じ心の人としんみりと物語して、趣味のことも、世の無常についても、率直に話して心を慰めることこそ嬉しいことだろうが、そのような相手は現実にはあるまいから、現実に人と向かい合う時は、少しでも相手の心持にたがわぬようにと気を遣って向かい合うのは、独りでいるのと同じ心地だろう。

互いにじっくり話し合いたいような内容について話して「なるほど」と聞くのは有意義であるものの、少し自分と意見の違う人こそ「私はそうは思わない」など言い合い、「それだから、そうなのだ」と語り合うのは、退屈もまぎれると思うが、実際には、少し心の不満を漏らす、その言い方においても、自分と同じでない人は、大方のどうでもいい事を話すにはいいのだが、真実の心の友には、はるかに隔たっている所があるに違いない。それが、つらいなあ。

…なかなか、深く話し合える相手というのは得られないですからね。『伊勢物語』に、こういう歌があります。

思ふこと 言はでぞただにやみぬぺき
我とひとしき人しなければ

心に思うことは、わが心だけにしまって、言わないでおこう。自分と感覚が同じ人間なんて、しょせんこの世には存在しないのだから。

つるまない

●友人は大切だ、
●いや、大切ではない。

いろいろ意見があると思いますが…地方と東京では、空気が違うなあというのは感じます。たとえばずっと地元にいて、結婚して子供もいるのに、学生時代の友達と仲がよく、河原でバーベキューやって、定期的に連絡を取り合ってるゼ、みたいな。

私は、ああいう空気は感心しません。

学校時代の友人関係は、卒業したらバッサリ切り捨て、孤独になるべきだと思います。人とつるんでる暇があったら一人黙々と仕事や勉強をすべきです。

つきぬけた発想やビジネスプランというものは、常に孤独の中から生まれます。みんなでワイワイいう中から新しいアイデアが生まれることは、まずありません。馴れ合いは、何も生みません。歴史上のすぐれた発明・発見はほとんどが、深い、孤独な、一つの脳から生まれています。

だから、結婚後も学生時代の友人とつるみ、週末にバーベキューというのは、楽しいというのはわかるんですが、知能とか、アイデアという点では確実にマイナスになりますので、私は感心しないわけです。

読書家にとっての友

ひとり灯(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。

『徒然草』第十三段

【現代語訳】

一人ともしびの下に書物を広げて、会うことのできない昔の人を友とすることは、とても慰められることである。

この一句なんか、いいですね。なにも友人を、現世の友人にのみ限る必要は、ないんです。読書家は、何千年前の哲学者とも、歴史学者とも語らうことができる。だから、読書家に孤独は、ないんです。

友とするにわろき者

友とするにわろき者、七つあり。一つには、高くやんごとなき人。二つには、若き人。三つには、病なく身強き人。四つには、酒を好む人。五つには、猛く勇める兵(つわもの)。六つには、虚言(そらごと)する人。七つには、欲深き人。

よき友三つあり。一つには、物くるる友。二つには、医者(くすし)。三つには、智慧ある友。

『徒然草』第百十七段

友とするのに悪い者を七つ挙げて、よき友を三つ挙げる…七対三の割合で、悪いもののほうが多いということでしょうか。その内容も、皮肉がきいています。もっとも、こんなふうに言ってる人が意外に、友達が多かったりするかもしれませんが。

孤独を好む心と、人恋しさ

さしたる事なくて人のがり行くは、よからぬ事なり。用ありて行きたりとも、その事果てなば、とく帰るべし。久しく居たる、いとむつかし。

人のむかひたれば、詞(ことば)多く、身も草臥(くたび)れ、心も閑ならず、万(よろづ)の事障りて時を移す、互ひのため益(やく)なし。いとはしげに言はんもわろし。心づきなき事あらん折は、なかなかそのよしをも言ひてん。同じ心にむかはまほしく思はん人の、つれづれにて、「いましばし、今日は心閑(しづか)に」など言はんは、この限りにはあらざるべし。阮籍が青き眼、誰もあるべきことなり。

そのこととなきに人の来(きた)りて、のどかに物語りして帰りぬる、いとよし。又、文も、「久しく聞えさせねば」などばかり言ひおこせたる、いとうれし。

『徒然草』第百七十段

【現代語訳】
さしたる用事もないのに人のもとに行くのは、よくない事である。用があって行っても、その事がすんだら、すぐに帰るのがよい。長居するのは、たいへんわずらわしい。

人と向かい合えば 、言葉は多くなり、体もくたびれ、心も乱される。あらゆる事に差しさわりが生じて時を過ごす。互いのために無益である。不愉快そうに言うのもよくない。気の進まない事がある時は、かえってその事情を言ってしまおう。

しかし同じ心で向かい合っていたいと思う相手が、しかも自分が退屈な時に、「もう少し、今日は心静かにご一緒しましょう」などと言うのは、この限りではないだろう。阮籍が気に入った人物には青い目を向けて気に入らない相手には白目を向けたという故事があるが、そんなふうに気に入った相手に青目を向けるのは、誰にもあるに違いないことである。

特に用事もないのに人が訪ねて来て、のどかに物語して帰るのは、実にいい。又、手紙も、「長い間ご無沙汰しておりますので」などという具合に言いよこしてくるのは、実に嬉しい

…ここなんか、兼好法師の中の、孤独を好む心と、人を恋しく思う気持ちが同居しているのが出ていて、ニヤリとさせられます。こういうところに、徒然草味があります。

兼好法師の家集には、このような歌があります。

人に知られじと思ふ頃、ふるさと人の横川までたづね来て
世の中のことどもいふ、いとうるさし

年ふれば訪(と)ひ来ぬ人もなかりけり
世の隠れがと思ふ山路を

されど、帰りぬるあといとさうざうし

山里は訪はれぬよりも訪ふ人の
帰りてのちぞさびしかりける

人に知られたくないと思っていた時、昔なじみの人が比叡山横川まで
たずねて来て、世間のことを話していった。たいへんうるさかった。

時が経つと、訪ね来る人もない。世間からの隠れ家と思う、この山路を。

しかし、その人が帰ってしまった後は、とても心寂しい。

山里は人が訪ねてこないよりも、訪ねてきた人が
帰った後のほうが、いっそう寂しいなあ。

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本日も左大臣光永がお話しました。
ありがとうございます。