『徒然草』より「世に語り伝ふる事、多くは虚言なり」

こんにちは。左大臣光永です。

本日は『徒然草』より「世に語り伝ふる事、多くは虚言なり」という話です。

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吉田兼好の人間観察眼が冴える話です。
「嘘」に接した時の人のさまざまな反応を描いています。

世に語り伝ふる事、まことはあいなきにや、多くは皆虚言(そらごと)なり。あるにも過ぎて人は物を言ひなすに、まして、年月過ぎ、境も隔たりぬれば、言ひたきままに語りなして、筆にも書きとどめぬれば、やがて又定まりぬ。道々の物の上手のいみじき事など、かたくななる人の、その道知らぬは、そぞろに神のごとくに言へども、道知れる人は更に信もおこさず、音に聞くと見る時とは、何事もかはるものなり。

かつあらはるるをも顧みず、口にまかせて言ひ散らすは、やがて浮きたることと聞ゆ。又、我も誠しからずは思ひながら、人の言ひしままに、鼻のほどおごめきて言ふは、その人のそらごとにはあらず。げにげにしく、ところどころうちおぼめき、よく知らぬよしして、さりながら、つまづまあはせて語るそらごとは、おそろしき事なり。我がため面目あるやうに言はれぬそらごとは、人いたくあらがはず。皆人の興ずる虚言は、ひとり、「さもなかりしものを」と言はんも詮なくて、聞きゐたるほどに、証人にさへなされて、いとど定まりぬべし。

とにもかくにも、そらごと多き世なり。ただ、常にある、めづらしからぬ事のままに心得たらん、よろづ違(たが)ふべからず。下(しも)ざまの人の物語は、耳おどろく事のみあり。よき人は怪しき事を語らず。

かくはいへど、仏神(ぶつじん)の奇特(きどく)、権者(ごんじゃ)の伝記、さのみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の虚言をねんごろに信じたるもをこがましく、「よもあらじ」など言ふも詮なければ、大方はまことしくあひしらひて、偏(ひとえ)に信ぜず、また疑ひ嘲るべからず。

第七十三段

【現代語訳】

世に語り伝える事は、本当のことはつまらないからであろうか、多くは皆虚言である。実際より大げさに人は物を言い作る上に、まして、年月過ぎて、場所も隔たっているのだから、言いたいままに語り作って、筆にも書きとどめてしまえば、すぐに又それが定説になってしまう。

それぞれの専門の道に達した達人の技なども、道理を知らない人でその道を知らない人は、やたらに神のように言うけども、道を知っている人はまったく信じる気も起こさない。評判に聞くと実際に見るとは、何事も違うものである。

一方ではすぐ嘘とばれるのを顧みず、口に任せて言い散らすのは、すぐに根拠の無い話とわかる。又、自分も本当らしくないとは思いながら、人が言うままに、鼻のあたりをひくひくさせて言うのは、その人自身から出た虚言ではない。

いかにも本当っぽく、所々話をぼかして、よく知らないふりをして、そうはいっても、つじつまは合わせて語る虚言は、(いかにも本物っぽく信じやすいので)恐ろしい事である。

自分にとって面目の立つように言われた虚言は、人は大きくは抵抗しない。皆人が面白がっている虚言は、一人「そうではないようだが」と言っても仕方ないので、黙って聴いているうちに証人にさえされてしまい、いよいよ嘘が事実のようになってしまうのだろう。

とにもかくにも、虚言が多い世の中である。ただ、常にある、めづらしくも無い事のままに心得れば、万事間違えることは無い。下々の人の語る物語は、耳おどろくような面白い話ばかりである。まともな人は怪しい事を語らない。

そうはいっても、聖人伝・高僧伝などはそうむやみに疑うべきものではない。こういう話は世俗の虚言を心の底から信じるのもばからしいし、「ありえない」など言っても仕方ないことなので、大方は本当のこととして受け取っておいて、熱心に信じてはならないし、また疑い嘲ってもいけない。

………
……

世に語り伝える事は、本当のことはつまらないからであろうか、多くは皆虚言である…いきなり核心を突きますね。

ドラマチックに面白おかしく伝えられていることは、たいがいは人が作った話で、実際はそんなドラマチックなことは無いんだよ、という話です。

京都の六角獄舎跡に行ったとき、神社に大きな榎の木があって、坂本龍馬とおりょうが木の上に上った、という伝説がありました。おりょうの父・楢崎将作(ならざきしょうさく)は勤皇の志士を支援した医師で、安政の大獄で捕えられ、六角獄へ収監されていたのです。

それで、おりょうは何度も面会を求めますが許可がおりないので、坂本龍馬がおりょうさん、登るぜよと二人で木の上に上った、という話です。

しかし案内してくれた方が「こんなん眉唾もんですわ。後の時代の人間が勝手に話つくりよったんですわ~」なんて言っていたのを思い出します。

川中島で武田信玄と上杉謙信は一騎打ちをしたのか?

した、しないが半々の可能性らしいですが、一騎打ちはあってほしいです。ここまで後世に語り伝えられていることは、もう事実がどうであったかを越えて、日本人の血に長く刻まれた、共通イメージであり歴史だと思います。

新撰組の池田屋事件で階段落ちは無かったですが、芝居や映画では長年階段落ちが描かれ、池田屋といえば階段落ち。池田屋といえば階段落ち。それはもう、作り話、嘘ということを越えた、共通イメージになっています。

中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠の会で出会ったというのも…昔は教科書に載っていましたが、さすがに現在では載ってません。ちょっと残念です。美しい場面じゃないですか。若き中大兄がポーーンと蹴った毬を、物陰からあらわれた中臣鎌足がスッ…と拾って、差し上げた。これが二人の最初の出会いであった。ああなんとドラマチックな!もちろん『日本書紀』の創作である可能性は高いですよ。高いですが、長年語り伝えられてきた、美しいイメージじゃないですか。それが廃れていくのは、寂しいなァ

さて『徒然草』です。

後半、嘘を疑えといっても、「聖人伝・高僧伝などはそうむやみに疑うべきものではない」とあります。そういう類の仏教説話は、仏教の真理を伝える意図があって記されたもので、根っこには教えがある。だから、「嘘じゃん」「作り話だろww」とバカにしてはならん。というわけです。だからといって大真面目に信じる必要も無い、ということを兼好は語ります。

日蓮が処刑されようとしていたすんでの所で、江の島から光の玉が飛んできて、鎌倉幕府の役人がひいいいと縮み上がった。日蓮はひたすらお題目を唱えていて、わっ、わかった。死罪は取り消すといって、許された、あの類の話です。

ほんとうに江の島から光の玉が飛んできたのか?歴史上の事実かというと、微妙なところですが、こういう話には、ちゃんと教えがあって語られていることなので、無下にバカにするものではないよ、という話です。

そんな感じで、「世の中に流布している面白すぎて嘘かもしれない話」を観察してみると、面白いですよ。「昔はやんちゃだった」とかいって、居酒屋で語っている「昔の武勇伝」。あれは、嘘大げさばかりですね。

■聴いて・わかる。『徒然草』for Windows
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『徒然草』の全文を、現代語訳つきで朗読し、楽しく解説しました。一文一文を丁寧に読み解き、歴史的背景も含めてわかりやすく解説していきます。

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